この意見書は、国連人権理事会 児童ポルノ問題特別報告者のマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏による「過激なマンガの禁止」の提言に対する反論意見として、2015年12月16日にCBLDFの公式ブログに掲載されたものです。
原文: Why Banning Extreme Manga Fails To Protect Children
ブラウンスタイン事務局長からは、「日本の皆様が、この意見書に興味を持って下さったことに、感謝を申し上げます。日本語訳の公開を、大変光栄に思います」とのコメントが寄せられています。
2015年12月16日
チャールズ・ブラウンスタイン
(米国コミック弁護基金 事務局長)
漫画は犯罪ではない
最近のマスコミ報道は、国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏が、子供の性的虐待を食い止めるための日本への提案として「国が過激な児童ポルノを含む漫画を禁止すべきだ」と言及している点を強調していた。この提案は誤って解釈され、残念なことに彼女の価値ある努力 —実際の児童への虐待や搾取を終わらせる— という、より大きな実体から注意をそらす結果となった。
ガーディアンやストレーツ・タイムズを含めたマスコミの報道を見ると、彼女の提案の大部分は漫画という観点の下に埋もれてしまっている。これは本当に残念である。表現内容に重点が移り、実存する被害者に対して影響を及ぼしている犯罪行為からは離れてしまっているからである。昨年、日本がついに—そして正当に—児童ポルノ所有者を起訴するためのこれまで延び延びになっていた法令を通過させ、児童への性的虐待の抑制に対し大きく前進していることをド・ブーア=ブキッキオ氏は認めている。しかし、この国にはいまだ長い道のりが残されている。ド・ブーア=ブキッキオ氏は国連報告書による批判の中で次のように指摘している。
・告訴が被害児童により行われない限り、虐待を調査、起訴する法の実施には消極的である。
・犯罪者に対しての刑罰が軽い。
・被害児童に対する適切な補助が不足している。
上記の指摘とその他の重大な弱点が報告書内で特定されており、ここでこの報告書全体を読み解く価値が十分にある。残念なことに、表現内容を抑制すべきという提案を含めた事によって「描かれたファンタジー創造物」というテーマ周辺にマスメディアの関心を導いてしまい、実際の児童の搾取の過酷さや、それに対抗する日本の法律の構造的欠陥という問題から注意をそらす結果になってしまった。
ド・ブーア=ブキッキオ氏は、この問題とバランスをとるべき表現の自由の問題がある点を認識しており、これに言及している。「私は成人のポルノに関して、という話であれば、表現の自由に関する議論の方が優勢であるし、重要だと認めます。」行き過ぎた表現内容を禁止すべきと彼女が要求したことの問題の一つは、「実際の犯罪行為の証拠写真」と、「描かれたイメージ」を同等に扱う間違いを犯していることである。もう一つは、小さくかわいらしいアートの表現手法や、「カワイイ」もの、可愛らしさを強調する日本文化の結果として、多くの漫画が「若年のキャラクターを描写しているかのように」西洋人の目には見えることである。
しかし日本人にとって最も厄介な問題は、日本の法執行機関が表現芸術に対して専断的に起訴を執行する傾向がある、という点である。そのケースの一つがコアマガジン社の編集者たちの逮捕である。我々は、2013年にコアマガジン社の編集者3人が、日本のわいせつに関する法令の下で以前は認められていた範囲内の物品を押収された上にわいせつ図画頒布容疑で逮捕、起訴された件について報じた。コアマガジン社の編集者にとって起訴は突然の思いがけない出来事であり、有罪答弁を編集者たちが受け入れるという結果につながった。またこの起訴は、主流の出版業者や二次創作の同人出版の間で自己検閲の波が広く伝わる結果へとつながった。
警察がコンテンツ関連の違反起訴に対し、公正明大さや透明性を重んじる姿勢を示していないことで、日本に於ける新しい規制は顕著な脆弱性を生み、自己検閲の方向へと推し進めることになるだろう。日本がド・ブーア=ブキッキオ氏の提案を受け入れることになった場合、より専断的な起訴が起こる可能性が高い。
アメリカの読者は、なぜ非常に性的なコミックの内容、特に児童を描写している内容に対して反対する重要性があるのか問うてきた。こうしたコンテンツの内容はしばしばタブーに背き、非常に嫌悪を催す不快なものであるが、さまざまな理由からこれらを擁護する価値はある。
第一に、コミックを告訴しても実際の児童性犯罪の被害者を保護しているわけではない点である。児童ポルノの定義に基づけば児童ポルノとは実在する人が性的虐待に巻き込まれた際の犯罪の写真証拠を指す。北米では、表現内容に関して起訴された人たちのいくつかの事例において、実際の犯罪行為も児童への虐待傾向もなかったことが明らかになったが、当局は未だに実際の虐待被害者ではなくそうした人たちを起訴することにリソースを割いている。誤った優先順位によって虐待被害者を保護すべき法行使のリソースがそらされ、結果的に実存する児童達を傷つけている。日本に関して言うならば、児童虐待防止法における著しい落ち度を正す努力を強化する代わりに内容検閲をさらに強化することを容認する事態になれば、虐待問題を解決する、というより緊急性の高い問題から焦点がそらされている、と言わざるをえない。
第二に、欧米の道徳規範はグローバルなものではない点である。アメリカでは性的な内容を持つコンテンツはその大部分が写真の形で提供され、独創性や想像力を介さず内容を即物的に受け止める、描写内容と対象題材が直結するメディアである。18歳を超えた年齢のモデル達による写真により表現されたものであると指摘可能な事例であるならば、我々はこれら未成年者の性を扱うファンタジーの表現に対して法的、あるいは多くの場合、文化的な反対を唱えはしない。そのような例を探すのは難しいものではなく、ベアリー・リーガル・マガジンの毎号の内容を考えればいい。我々が反発するのは、これと全く同じファンタジーを「描いて」表現した際に、その対象が未成年に見える場合である。これは、写真の場合には実際に人物が参加しており、絵の場合には人物が参加していないという事実にもかかわらず、起こる問題である。
日本では、状況が正反対に近い。性的な写真コンテンツも存在するが、性的な描写を持つ絵によるコンテンツの方がはるかに多く存在する。これは私が知的自由と漫画についての文化交流に参加するため東京に滞在していた時、性的に露骨な描写の内容を持つあらゆる漫画が一般的な大型書店で公然と販売され、普通の大人たちが購買していたことを目の当たりにしたため、事実である。実際、初めて新宿の官庁街近くにある漫画書店の紀伊國屋書店アドホックへ行った時、私は目を見張った。5階まであるこの漫画書店のうち、最上階は男性向け成人漫画専門、4階には女性向け成人漫画専門フロアとなっており、各階ではこれらの漫画が展示販売され、閲覧者に安全な場所であるよう職員が配置されていた。ディスプレイの仕方には、通常アメリカで同様のコンテンツを販売している小売業者に共通して見られる恥の目やいかがわしさは見られない。両方の売り場にあるコンテンツの被写体は、アメリカ人が写真や即物的な形で消費する性的な内容とそれほどひどく異なるものではなかった。しかしそうは言っても、描写によるコンテンツという性質から、写真手法で表すことのできる性的なコンテンツよりも多彩で想像的な種類の内容を生み出しており、欧米人が漫画に異議をとなえる多くの問題へとつながっている。
この点は、我々を第三の問題へと導くものであり、おそらく最も重要な点である:「罪を犯す物語の表現」や「その消費」は、「実際に犯罪行為を行う衝動」と同じではない。これはアメリカでは確かめられた事実である。ベストセラーとなっているポルノコンテンツの内容や最も人気のあるポルノ関連検索用語と、それを消費する人々のセックスライフを比較すると、確かにそこには実生活上の行動と符合するものがほとんどないことに気付くだろう。これは日本でも同じ事実である。
日本の漫画の性的表現に対して欧米人の判断を課した場合、しばしばその内容、製作者、消費者にまつわる微妙な意味合いを斟酌するのに失敗する。おそらく日本訪問で私が最も驚いたのは、「レディースデイ」にコミックマーケットへ行き、適切な事例を得たことである。「コミケ」の名で知られているコミックマーケットは、1年に2回、3日間にわたり行われる同人誌、自費出版漫画の巨大なお祭りである。1日に20万人前後がコミックマーケットに参加し、日ごとに出品者が異なる。3日間で35000の同人誌サークル—1人のクリエーターによるものから大勢のクリエーターの集まりによるものまで、数多くの出版者たち—が自費出版商品を陳列する。幅広い内容のものが販売され、ブランド化した人気漫画の模倣からオリジナルストーリーもの、大衆文化の様相に関するファン雑誌、そしてもちろん、非常に露骨な性描写のあるもの。私がコミットマーケットへ訪れた時、レディースデイ、メンズデイ、「よろずの」デイがあり、それぞれの日の出品者はこうした非常に幅広い読者グループに向けたコンテンツを販売していた。
レディースデイに私がホールを歩いていると、ド・ブーア=ブキッキオ氏ならば児童ポルノ—幼い女の子が性行為におよぶファンタジーで、中には非常に年老いた男性を含むものもある—とみなすであろう内容のコンテンツを陳列する数列の並びに入り込んだ。それは、もし我々の事例の一つとして直面していたならば、私は顔をしかめつつもロバート・クラムが振りかざす不滅の屁理屈「それは紙に描かれた単なる線の集まりですよ、皆さん!」を引き合いに出し、防御に入ったであろう類のものだった。しかしとても啓発的だったのは、これらのコミックがたいていごく普通の、中年から年配の女性により販売されていたことである。これらのコミックの内容を知り、その著者と話をすると、これらのストーリーが犯罪行為や虐待を行う誘発要因でないことは明らかで、著者や読者の想像上の人生を反映させ、ファンタジーやロールプレイングの一形態として表現されたものだったのである。
漫画は想像力のための安全な空間として機能している。漫画の形をとることで声を発する幅広い種類の性的なファンタジーが現に存在し、中には疑う余地もなく不穏で不快なものもある。しかしそれらは現実ではなく、実在する人々を傷つけているわけではない。こうした漫画の創作と消費に対して法的なリソースを割いたとしても、実在する人々を保護する手助けにはならない。そしてド・ブーア=ブキッキオ氏が指摘するように、保護を必要とする人々が実在する。残念なことに、メディアの話題はそうした人々に焦点を置いていなかった。漫画に焦点を置いていたのだ。それは危険にさらされている実在の人々を助けることから注意をそらす、残念な成り行きである。
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