2014年も、残すところ、あと僅かとなりました。
今年は「表現の自由」の根幹に関わる様々な問題が国政の場において論じられた年でした。
昨年から引き続いて審議が行われた児童ポルノ禁止法の改正、与野党の激しい論戦の舞台となった特定秘密保護法、衆議院選挙の論点にもなったヘイトスピーチ対策法制。
いずれも、児童の人権や、国家の安全、人種・民族間の平等など、重大な利益が関わる大切な法案であると同時に、その目的と手段に間違いが紛れ込めば、表現の自由を取り返しがつかない形で侵害してしまうリスクの大きな難しい法案でもあります。
今年のうぐいすリボンは、次の2つの法案への対策を中心に活動を展開しました。
① 特定秘密保護法案の刑事規制の範囲の限定
うぐいすリボンでは、元東京地検公安部検事の落合洋司弁護士に登場して頂き、国会やメディアにおいて、「国家機密と刑事手続」の問題についての論点化を行いました。
みんなの党や維新の会の先生方のご尽力により、当初の与党案から刑事規制の及ぶ範囲を一定程度限定することに成功しました。
② 児童ポルノ禁止法の当初の改正案にあった「マンガ等規制検討条項」の削除
うぐいすリボンでは、IT政策やクールジャパン政策に精通した与野党の先生方を中心に政策提言を行い、それぞれの党内の部会等で、当該附則部分の削除に向けて尽力をして頂きました。また、マンガ家やマンガ研究者の方々による陳情に協力して、資料提供や連絡調整等の事務作業を行いました。
漫画家の先生方や、自民・民主・みんな・結い・社民・共産の理解ある先生方のご尽力により、マンガ等規制検討条項の削除に成功することができました。
特に、「マンガ等規制検討条項」の削除については、厳しい情勢にも関わらず、様々な立場の方々が力を貸して下さいました。激しい偏見にさらされてもひるむことなく、自由な社会と文化を守るために立ち上がった全ての皆様に、改めてお礼を申し上げます。
しかしながら、問題はこれで終わったわけではあまりせん。
今年は廃案となりましたが来年の通常国会以降に、青少年健全育成基本法案の審議が予想されています。
うぐいすリボンでは、引き続き「フィクションの自由」に、重要テーマとしてコミットしていきたいと考えています。
うぐいすリボンでは、活動の継続のため、皆様からの寄付を必要としてします。
ゆうちょ銀行への振替、クレジットカード、コンビニ決済がご利用頂けます。
「自由な社会」と「豊かな文化」を次の世代に伝えるために、ぜひご協力くださいませ!
http://www.jfsribbon.org/p/blog-page_5.html
2014年12月8日月曜日
2014年11月30日日曜日
ポスト風俗営業時代の音楽とダンスの可能性
11月30日に OUT OF PLACE さんと共催したイベント「ポスト風俗営業時代の音楽とダンスの可能性」には、島田市内を中心に約30人の方が参加して下さいました。講師の斉藤貴弘先生(弁護士)と、参加者の皆様に御礼を申し上げます。
静岡県島田市を拠点にアート系のまちづくり活動等を手掛ける Out of Placeさん と共催で、風俗営業法改正後のダンスとクラブカルチャーについて考えるイベントを開催いたします。
第1部は、ドキュメンタリー映画「SAVE THE CLUB NOON」を上映。
第2部は、弁護士でレッツダンス共同代表の斉藤貴弘先生の講演です。
ぜひ、ご来場くださいませ。
日時:
2014年11月30日(日) 13時~16時15分
場所:
BASHIRAZ (静岡県島田市日之出町1-16 0547-54-5114)
参加費:無料
定 員:40名(先着順)
主催:OUT OF PLACE
共催:NPO法人うぐいすリボン
協力:
映画「SAVE THE CLUB NOON」製作委員会
NPO法人東海道・吉原宿
ご予約方法:
EメールまたはFAX、こくちーずイベント申込画面にてお申し込みください。
(代表者様のお名前、ご住所、参加人数、日中連絡のつく電話番号、PCから受け取れるメールアドレス、所属団体がございましたらそちらを記載の上、お申し込みください)
こくちーずイベント申込:http://kokucheese.com/event/index/220940/
Email:info@out-of-place.com
FAX: 0547-35-5114
*定員に達し次第、募集を閉め切らせていただきますのでお早めにご予約ください。
お問い合わせ:OUT OF PLACE (info@out-of-place.com)
静岡県島田市を拠点にアート系のまちづくり活動等を手掛ける Out of Placeさん と共催で、風俗営業法改正後のダンスとクラブカルチャーについて考えるイベントを開催いたします。
第1部は、ドキュメンタリー映画「SAVE THE CLUB NOON」を上映。
第2部は、弁護士でレッツダンス共同代表の斉藤貴弘先生の講演です。
ぜひ、ご来場くださいませ。
日時:
2014年11月30日(日) 13時~16時15分
場所:
BASHIRAZ (静岡県島田市日之出町1-16 0547-54-5114)
参加費:無料
定 員:40名(先着順)
主催:OUT OF PLACE
共催:NPO法人うぐいすリボン
協力:
映画「SAVE THE CLUB NOON」製作委員会
NPO法人東海道・吉原宿
2014年11月25日火曜日
新決済システムの移行について
賛助会員の皆様へ
いつも特定非営利活動法人うぐいすリボンの活動にご協力くださり、ありがとうございます。
うぐいすリボンは、クレジットカードによる寄付金と賛助会費の決済に、日本財団CANPANセンターの決済システムを利用していますが、このたび、この決済システムが全面改訂されることになりました。
http://kessai.canpan.info/org/uguisumembers/
賛助会員の皆様には、日本財団の担当者から、新システムへの会員登録についての問い合わせが、メールであるかと思います。
引き続き、賛助会員を続けて下さる皆様は、たいへんお手数ではございますが、カードの再登録をどうぞよろしくお願い申し上げます。
今後とも、うぐいすリボンを、どうぞよろしくお願いいたします。
新決済システムの移行について
いつも特定非営利活動法人うぐいすリボンの活動にご協力くださり、ありがとうございます。
うぐいすリボンは、クレジットカードによる寄付金と賛助会費の決済に、日本財団CANPANセンターの決済システムを利用していますが、このたび、この決済システムが全面改訂されることになりました。
http://kessai.canpan.info/org/uguisumembers/
賛助会員の皆様には、日本財団の担当者から、新システムへの会員登録についての問い合わせが、メールであるかと思います。
引き続き、賛助会員を続けて下さる皆様は、たいへんお手数ではございますが、カードの再登録をどうぞよろしくお願い申し上げます。
今後とも、うぐいすリボンを、どうぞよろしくお願いいたします。
2014年10月18日土曜日
改正児ポ法&健全育成基本法案 解説講演会 (in沖縄)
2014年10月18日に那覇で開催した「改正児童ポルノ禁止法及び青少年健全育成基本法案 解説講演会」は、写真家や、図書館・古書店の関係者など、約10人の方が受講して下さいました。
参加者の皆様と、講師の林先生に御礼申し上げます。
講師:
林 朋寛さん (弁護士)
日時:
2014年10月18日(土) 18時~20時
場所:
沖縄県男女共同参画センター
内容:
弁護士の林朋寛先生に、2014年に可決成立した改正児童ポルノ禁止法の逐条解説と、近々国会での審議が予想される青少年健全育成基本法案の概要紹介を、して頂きました。
主催:
(特活)うぐいすリボン
協力:
コンテンツ文化研究会
女子現代メディア文化研究会
後援:
(一社)日本インターネットプロバイダー協会
(株)日本評論社
レジュメ:
◆参考:林 朋寛 弁護士のコラム
「改正児童ポルノ禁止法で脅かされる表現の自由」
「ろくでなし子」逮捕、表現の自由は何処へ
参加者の皆様と、講師の林先生に御礼申し上げます。
講師:
林 朋寛さん (弁護士)
日時:
2014年10月18日(土) 18時~20時
場所:
沖縄県男女共同参画センター
内容:
弁護士の林朋寛先生に、2014年に可決成立した改正児童ポルノ禁止法の逐条解説と、近々国会での審議が予想される青少年健全育成基本法案の概要紹介を、して頂きました。
主催:
(特活)うぐいすリボン
協力:
コンテンツ文化研究会
女子現代メディア文化研究会
後援:
(一社)日本インターネットプロバイダー協会
(株)日本評論社
レジュメ:
◆参考:林
「改正児童ポルノ禁止法で脅かされる表現の自由」
「ろくでなし子」逮捕、表現の自由は何処へ
2014年10月1日水曜日
韓国地裁における非実在児童ポルノの合憲限定解釈無罪事件
水原地方法院城南支院
判決
事件 2014ゴダン285
[ガ] 児童·青少年の性保護に関する法律違反[訳者注釈i](わいせつ物製作·配布等)
{認められた罪名 情報通信網利用促進及び情報保護等に関する法律違反(わいせつ物流布)}
[ナ] 情報通信網利用促進及び情報保護等に関する法律違反(わいせつ物流布)
[ダ] 児童·青少年の性保護に関する法律違反(わいせつ物製作··配布等)幇助
{認められた罪名 情報通信網利用促進及び情報保護等に関する法律違反(わいせつ物流布)幇助}
[ラ] 情報通信網利用促進及び情報保護等に関する法律違反(わいせつ物流布)幇助
被告人
1(自然人) 訴因[ガ][ナ]
2(自然人) 訴因[ナ]
3(自然人) 訴因[ナ]
4(自然人) 訴因[ダ][ラ]
5(株式会社) 訴因[ダ][ラ]
判決宣告 2014年9月24日
2014年9月20日土曜日
講演会「インターネット事業と私的検閲 」
2014年9月20日に開催した講演会「インターネット事業と私的検閲」には、IT企業の公共政策担当者やインハウスローヤー等を中心に、約90人の方が参加して下さいました。
受講者の皆様と、講師の宍戸常寿先生(東京大学教授)、コメント役の大屋雄裕先生(名古屋大学教授)、成原慧先生(東京大学助教)に、心から御礼を申し上げます。
演題: インターネット事業と私的検閲
講師: 宍戸常寿さん (東京大学教授/憲法学者)
日時: 2014年9月20日(土) 19時~20時30分
場所: 文京シビックセンター スカイホール
主催:(特活)うぐいすリボン
後援:(一社) 日本インターネットプロバイダー協会、(株) 日本評論社
内容:
憲法学者の宍戸常寿先生(東京大学教授)に、インターネット事業における「私的検閲」の問題をテーマに講演をして頂きました。
レジュメ:
◆参考:
講演「インターネット事業と私的検閲」メモ
(名古屋大学のロースクール生による講演のまとめ)
皆様へのお願い
今後も「表現の自由」のための活動を継続するために、皆様からの寄付を必要としています。クレジットカード、コンビニ支払、銀行振込、ゆうちょ振替で簡単に決済できます。ぜひ御協力くださいませ。
受講者の皆様と、講師の宍戸常寿先生(東京大学教授)、コメント役の大屋雄裕先生(名古屋大学教授)、成原慧先生(東京大学助教)に、心から御礼を申し上げます。
演題: インターネット事業と私的検閲
講師: 宍戸常寿さん (東京大学教授/憲法学者)
日時: 2014年9月20日(土) 19時~20時30分
場所: 文京シビックセンター スカイホール
主催:(特活)うぐいすリボン
後援:(一社) 日本インターネットプロバイダー協会、(株) 日本評論社
内容:
憲法学者の宍戸常寿先生(東京大学教授)に、インターネット事業における「私的検閲」の問題をテーマに講演をして頂きました。
(写真提供:マンガ論争)
レジュメ:
◆参考:
講演「インターネット事業と私的検閲」メモ
(名古屋大学のロースクール生による講演のまとめ)
皆様へのお願い
今後も「表現の自由」のための活動を継続するために、皆様からの寄付を必要としています。クレジットカード、コンビニ支払、銀行振込、ゆうちょ振替で簡単に決済できます。ぜひ御協力くださいませ。
2014年8月19日火曜日
性的空想に法的制限を設けるべきか ~米国の歴史的、法的及び政策的な観点~
Svetlana Mintcheva
性的空想に法的制限を設けるべきか
米国の歴史的、法的及び政策的な観点
「この分野での経験から何かを学ぶとするならば、わいせつ物の検閲は今に至るまで必ずと言っていいほど不合理かつ無差別的であったということだ」
最高裁判事ウィリアムO.ダグラス
最高裁判事ウィリアムO.ダグラス
憲法修正第1条と性: 性表現は言論として保護されているか? 立法の根拠としての「害」対「嫌悪感」
米国は「自由の地」のイメージに尽力しており、考える自由と話す自由、すなわち米国憲法修正第1条に記された権利ほど、この国で大事にされている自由はない。しかし、この権利は決して絶対的ではない。この数百年間、裁判所では第1条の保護の範囲について激しい議論が繰り広げられ、性が関係している場合には特に大きな論争を引き起こしている。
非常に長い間、裁判所と一般社会はいずれも、露骨な性表現を保護された言論として認識すらせず、検閲は厳しいものだった。今日でさえ、性表現はワンランク下の特異な立場にあるが、この事実はほとんど理に適っておらず、米国の社会文化的な歴史の複雑な遺産として残された結果であると説明するしかない。
性は罪深く下品で、時には嫌悪感すら覚えるものとしての認識が受け継がれており、今日に至るまで裁判所はそのような認識を持って取り組んでいる。「害を及ぼす」という合理的な根拠で非常に強い情緒反応を呼び起こすものを規制しようとすると、矛盾が生じる。国民と国家の利益を保護する権限により、政府は、そのいずれかに実質的な損害を引き起こす場合には、表現を規制して制限する権利を有する。しかし、性表現に関して言えば、不快感や嫌悪感という強い感情は、害を証明する要件よりも優先されることが多い。今日、わいせつな表現(すなわち、法的に保護されない性表現)は、一人の人間に対する実害ではなく社会の構成員にとって「不快」であるという理由だけで、唯一、修正第1条の保護を拒絶されたままである。ジョン・スチュアート・ミルが150年前に主張したとおり、言論の法的規制の目的上、不快感は害を及ぼすものと判断することはできない。
しかし、嫌悪感は、区別をつける根拠として不合理であるだけでなく、差別的でもある。規制の原則として「嫌悪感」の根底にあるのは、特定の社会集団を支配して従属させたいという欲望である。その支配と正反対なのは、道徳的な混乱や道徳観の崩壊ではなく、欲望と他者の空想を尊重することである。
2014年7月31日木曜日
Should there be legal limits to sexual fantasy?
Svetlana Mintcheva
Should there be legal limits to
sexual fantasy?
Historical, legal and policy perspectives from the US.
“If experience in this field teaches anything, it is that censorship of
obscenity has almost always been both irrational and indiscriminate." Supreme
Court Justice William O. Douglas
The First Amendment and Sex: Is Sexual
Expression Protected Speech? Harm vs. Disgust as bases
for legislation
The United States is
committed to its image as “the land of the free” and no freedom is more
cherished here than the freedom to think and to speak, a right enshrined in the
first amendment of the constitution. But this right is by far not absolute. In
the last hundred years the courts have fiercely debated the extent of first
amendment protections and the debate has been especially contentious where
sexuality is concerned.
For a very long
time neither the courts not society at large even perceived sexually explicit
material as protected speech and censorship was rampant. Even today, sexual
expression occupies an anomalous second-class position, a fact which makes little
rational sense and can only be explained as a result of the complicated legacy
of American socio-cultural history.
To this day the
courts are grappling with an inherited perception of sex as sinful, shameful
and sometimes even disgusting. Incoherence sets in when they try to regulate on
the rational grounds of “causing harm” something that evokes very strong
emotional reactions. Mandated to protect the interests of its people and the
state, government has the right to regulate and limit expression when it causes
real harm to either. When it comes to sexual expression, however, strong
feelings of discomfort or disgust often prevail over the requirement to prove
harm. Today,
obscenity (i.e. legally unprotected sexual expression)
remains the only type of expression refused First Amendment protection not
because of actual harm to a person, but merely because of its “offensiveness”
to members of the community. Offensiveness, as John Stuart Mill argued a
century and a half ago, cannot be considered harm for the purposes of legal
regulation of speech.
But disgust is not
only an irrational basis for discrimination, it is discriminatory: what
underlies “disgust” as a principle of regulation is the desire to control and
subordinate specific social groups. The opposite of such control is not moral
anarchy and the dissolution of the moral order, it is respect for the desires
and fantasies of others.
A brief
excursion into history: Censorship as social
control and subordination
Civil groups
formed with the purpose to suppress “dangerous” (mostly sexual) material are an
American tradition: As early as the 19th century, so-called vice
societies took the task to “uphold public morals” in their hands, responding to
new social anxieties generated by urbanization, changing demographics, and the
proliferation of popular culture. These attempts to regulate sexual expression
were linked to fears about social change.
What vice
societies suppressed was always beyond rational argument: what they considered “the
corrupting” influence of low subject matter was to them an “obvious” threat to
society’s moral health. Nobody thought their actions violated the constitution
– partly because the first amendment did not apply to the states before the
1920s (only to federal action), and partly because few political and social
leaders questioned the dominant opinion that sexual expression needed to be
restricted so as not to corrupt women, children or the large mass of uneducated
single men or immigrants flooding the cities as labor.
Regulation of the
discussion of sex may have been inherited from a protestant religious tradition,
but the impetus for vice societies came from anxieties about social control. It
is worth noting that among the material suppressed by 19th century
vice societies was information about women’s health, alongside nude drawings
and erotic novels. Regulating sexual expression was as much about protecting a
certain “traditional” morality set upon religious principles as it was about
control of women, the working classes, new immigrants – all those groups that now
had an important social and cultural role defining the face of industrialized
urban America.
Defining Obscenity: when is sexual expression
criminal?
The rather vague and subjective legal standard used in obscenity cases in
the U.S. until 1957 was that of an 1868 British case, which defined as
“obscene” any material that tended to "deprave and corrupt those whose
minds are open to such immoral influences" (i.e. the lower classes, women
and children). The law condemned writing and images that tended to “excite
lustful thoughts", were “vulgar and indecent” and aroused feelings of “disgust
and revulsion."
But how can we have desire and revulsion simultaneously? Who is excited and
who is disgusted? There seem to be two subjects involved – one who lusts and
another who is disgusted at that lust. So, again, we have the desire to
subordinate those whose “lust” is not “properly” directed according to those in
power. Of course, it is very likely that we have a split subject here: one who at
once lusts and is disgusted at their own feelings – and that situation would
reveal the full burden of a religion that considers pleasure a sin.
In 1957, in the case of Roth v United
States, the US Supreme Court issued its first definition of obscenity: it narrowed what was
considered obscene and thus unprotected by the first amendment to material that
(1) stimulated a prurient (morbid,
unhealthy) interest in sex, (2) was offensive by community standards and (3) also
utterly lacked artistic, political, scientific or educational value.
Nevertheless, the disgust-lust tension remained. The definition, while still
vague (who is to decide what is a morbid or a healthy interest in sex?), added
a crucial consideration: “value”. This allowed many books that had heretofore
been banned in the U.S. to be published, D.H. Lawrence’s Lady Chatterley’s Lover and Henry Miller’s Tropic of Cancer among many others.
The court in Roth formally recognized
that that sex is an important part of the human condition and of artistic
creation. In the words of Justice William Brennan (who wrote the opinion of the
court): “Sex is a great and mysterious motive force in human life [which] has
indisputably been a subject of absorbing interest to mankind through the ages.”
In spite of this recognition, sexual expression that was “patently
offensive” and lacked “value” remained unprotected. Justice Hugo Black joined Justice
Douglas in vehemently disagreeing with this. Obscenity regulation, in Douglas’
opinion, imposed a standard where “punishment is inflicted for thoughts
provoked, not for overt acts nor antisocial conduct.” In his written dissent, Justice
Douglas pointed out the contradiction between the obscenity standard and the
first amendment: “The legality of a publication in this country should never be
allowed to turn either on the purity of thought which it instills in the mind
of the reader or on the degree to which it offends the community conscience. By
either test, the role of the censor is exalted, and society's values in
literary freedom are sacrificed.”
While obscenity regulations condemned materials just because they aroused
sexual thoughts, Douglas noted, the arousing of sexual thoughts and desires
happens every day in normal life in dozens of ways. Moreover the “offensive to
the community's standards” test was “destructive of freedom of expression”
because, under that test, juries could suppress anything they don't like if it
relates to "sexual impurity" or has a tendency "to excite
lustful thoughts."
The Backlash against Sexual Liberalization
For a while, as society was changing, it appeared as if all government
regulation of sexual expression would soon be abolished and Douglas’ views
would prevail – book after book was printed and found “not obscene”. The 1960s
ushered in an era of sexual liberation, which made social conservatives worried
about sexual permissiveness.
In an effort to base regulation of sex on rational grounds, President
Johnson appointed the “Lockhart” commission to study the effects of
pornography, expecting to document harm and thus have a free hand at suppressing
sexual expression. Two years later, however, the commission concluded that
pornography was not in fact harmful and called for the repeal of obscenity law.
The Commission’s report was immediately denounced by President Nixon who
"categorically rejected its morally bankrupt conclusions” and promised
that pornography would be controlled, if not even eliminated, under his
administration.
1973 Miller v California:
The introduction of local community standards and a “serious” value test
A 1973 Supreme
Court case revisited the obscenity standard set my Roth. Instead of doing away with the outmoded notion of obscenity,
the court expanded its reach.
Justice Brennan,
who wrote the opinion in Roth, now
dissented, objecting to any regulation of sexual expression. The decision was
close – 5 justices voted to maintain the obscenity standard, whereas 4 were
against.
Justice Douglas’
dissent was again notable for its insight: “What shocks me may be sustenance for my
neighbor. What causes one person to boil up in rage over one pamphlet or movie
may reflect only his neurosis, not shared by others.” This is what I see as the
principle of mutual respect: we may be disgusted by other people’s fantasies,
but this is no reason to make them criminal.
As he did in 1957, Douglas criticized the notion of offense as a vague and
subjective basis for regulation: “The idea that the First Amendment permits
punishment for ideas that are "offensive" to the particular judge or
jury sitting in judgment is astounding. … The First Amendment was not fashioned
as a vehicle for dispensing tranquilizers to the people. Its prime function was
to keep debate open to "offensive" as well as to "staid"
people.”
The Harm Principle
Those who want to regulate sexual expression try, over and over, to
prove that it causes harm. And the experimental results come in again and
again: there is no evidence of direct causal harm. But politicians still don’t
agree.
In 1985, Attorney General Edwin Meese convened a commission of
anti-pornography crusaders that issued a dossier on the harmful effects of
pornography. While admitting that linking aggressive behavior and
sexual violence “requires assumptions not found exclusively in the experimental
evidence,” the Commissioner saw “no reason, however, not to make these
assumptions…that are plainly justified by our own common sense.” Experts
consulted by the Commission condemned its conclusions.
The Value
defense
The way its proponents
defend obscenity law is by saying that it does not affect material of serious
artistic, literary, political or scientific value. The problem is that this
argument puts the burden on defenders of allegedly obscene material to prove
that something has value.
In 1989 a
retrospective of the work of photographer Robert Mapplethorpe, The Perfect Moment, led to obscenity
charges against the Contemporary Art Center in Cincinnati, Ohio and its
director. At issue were several photographs representing sexually explicit
scenes from the black leather s & m gay subculture, as well as two images
of young children with visible genitals.
The case went to
trial. After hearing testimony from art experts, the jury had to decide whether
the work was obscene based on the three-prong test defining obscenity since Miller v California. The answer to the
first two prongs of the test, which ask whether the material appeals to the
prurient interest in sex and whether it is patently offensive by local
community standards, was clearly yes. The decision of the jury thus hinged on
the third prong of the test: whether the material lacked serious literary,
artistic, political, or scientific value.
Contrary to the
work’s “patent offensiveness”, however, its value, according to Miller, must be judged not by local
community, but by national standards.
The defense summoned prominent national art experts who spoke highly of the
artistic significance of Mapplethorpe’s photographs. Deferring to their
opinion, the jury found that the work had serious artistic value and was,
therefore, not obscene. The high profile failure of the prosecution in securing
a guilty verdict in the Mapplethorpe case has pretty much inoculated art, at
least art recognized as such by the experts, from obscenity charges.
This is good news
for artists with recognition, but not so good news for those without an
established place in the art world, like the young underground comic book
artist Mike Diana, whose drawings earned him an obscenity conviction in 1994 in
Pinellas County, Florida. Similarly, today material like Japanese manga, the value
of which some consider low, has faced obscenity prosecutions. Given the hefty
legal penalties envisioned, all of these have so far ended with plea bargains.
As a result, the value defense has not been duly tested in court where manga is
concerned. This is unfortunate because, given the international spread of manga
and its increasing cultural prominence, it is very likely that experts would
easily convince a jury of its artistic value and thus make the US a safe place
for manga fans.
But should the
establishment of recognized value matter so much? While, as a
matter of practice, US free speech advocates use the value defense, making the
legality of speech hinge upon its perceived artistic “value” just serves to
consolidate cultural hierarchies and suppresses minority subcultures. Value, as
we all know, reflects the prejudices of a historical moment.
It is curious to
note here that the role of value of speech is seen very differently in the
context of sexual expression than elsewhere. In a 2010 case relating to
violence (US v Stevens), the court
rejected the argument that a claim of categorical exclusion from First
Amendment protections should be considered under a simple balancing test
weighing the “value of the speech against societal costs.” The Court observed
that, as history has repeatedly proven, something that is not considered
valuable today might be valuable tomorrow. This, of course, is just as true –
if not even truer - of expression with violent content as it is of explicit
sexuality.
21 century witch
hunts - or the fear of the imagination
The panic around
sexuality is extremely acute where children are involved. Even though nudity
that is innocent of sexual content is fully legal and protected no matter
whether it is that of an adult or child, the vague definition of child
pornography has made it hard to take a picture of a naked child without
worrying about whether it may be seen
as sexual. Merely possessing such an image may expose its owner to the risk of
a lengthy jail sentence.
So-called “child
pornography”, images featuring sex acts involving children, is criminalized
because the very production of such images is inherently related to the abuse
of actual children. Indeed, the exploitation and abuse of children in the
production of pornography is a crime that merits strict penalties.
However, the legal
definition of child pornography has gradually expanded to include not only the
representation of actual sex acts involving minors, but also any representation
of minors, nude or clothed, in which there is a “lascivious” focus on the
genitals.
But who is to
decide if a photograph of a child “lasciviously” focuses on the genitals? What
if an innocent image of a child playing on the beach arouses the “lascivious”
interest of a pedophile? Should it be the potential reaction of a pedophile
that becomes the standard by which we judge images of children? Vague as it is,
the law leaves it up to the beholder to judge whether an image of a child or
teen is pornographic or not. Worst, it loads the dice by often compelling
prosecutors who look at the image of a child to think of how that image could
be seen by a pedophile.
But what about sexually explicit
images that do not feature real children? Images that could have been computer
generated or produced by ink and on paper? For a few years at the end of the
last century it looked like child pornography law might expand to include even such
simulated images of children, so-called “virtual child porn.” A provision in the 1996 Child Pornography
Prevention Act prohibited "any visual depiction, including any photograph,
film, video, picture, or computer or computer-generated image or picture"
that "is, or appears to be, of a minor engaging in sexually explicit
conduct”. In 2002 in the case of Ashcroft
v The Free Speech Coalition, the US Supreme Court found the provision unconstitutional
and in violation of the First Amendment.
The rationale for that provision,
which aimed to create a direct link between speech and action, was as follows:
1.Pedophiles might use the materials to
encourage children to participate in sexual activity.
2. Pedophiles might “whet their own sexual
appetites” with the pornographic images, “thereby increasing the creation and
distribution of child pornography and the sexual abuse and exploitation of
actual children.”
The
first rationale - use of the materials to seduce children – was rejected by the
Court because “There are many things
innocent in themselves … such as cartoons, video games, and candy, that might
be used for immoral purposes, yet we would not expect those to be prohibited
because they can be misused.” If the law cannot ban chocolates or ice cream
because they could be used by a pedophile to entice a child in sexual behavior,
then it cannot ban images that could be used for those same purposes – and
whose original purpose may be completely different.
As
to whetting the appetites of pedophiles and encouraging them to engage in
illegal conduct, the court insisted that the mere tendency of speech to
encourage unlawful acts is not a sufficient reason for banning it. “Among free
men,” as Justice Brandeis had written in 1927, “the deterrents ordinarily to be
applied to prevent crime are education and punishment for violations of the
law, not abridgment of the rights of free speech” A criminal may claim he was
inspired by Dostoyevsky’s Crime and Punishment or by Arthur Penn’s film about
Bonnie and Clyde, but we don’t ban books and films because they may encourage
illegal behavior.
As
the causal link between images and
actual instances of child abuse is
always contingent and indirect (as is any link between a product of the
imagination and a specific action) the Court found that “virtual child
pornography is not “intrinsically related” to the sexual abuse of children.” The
harm from images of imaginary children involved in sex acts does not
necessarily follow from the speech, but depends upon some unquantified potential
for subsequent criminal acts, and this cannot be a basis for restricting
speech.
The
Court also recognized that an expanded law could have
had disastrous consequences on art, whether a theatrical production of Romeo and Juliet, which, indeed, may
feature actors appearing to be minors having sex or a film based on Lolita where a filmmaker may use body
doubles to shoot sexually explicit scenes involving an adult male and pubescent
girl. The actors in both would be adult, but would appear to be minors.
Uncertain of when the strict penalties of the law would fall on them few movie producers or book publishers would risk distributing images that
they believe may break the law: they would self-censor and refuse material that
may well be found legal in a court of law.
Based
on all these considerations, the Supreme Court rejected the criminalization of
sexual images of imaginary children under child pornography law and insisted
that vital distinctions should be drawn between words and deeds, between ideas
and conduct.
Still, representations of entirely
fictional children in sexual situations pose a risk for their creator and
distributor, as well as to the consumer. While
such images cannot be classified as child pornography as they do not involve
the participation of real children, they can be and are prosecuted under
obscenity law, but with a twist: they carry penalties equivalent to those
related to child pornography. The severe penalties are a disincentive to
those who would want to challenge an obscenity charge in courts – defendants
regularly plead guilty in return for lesser punishment. Thus, in 2010, a man
pled guilty to obscenity charges for receiving, through the mail, Japanese
manga featuring sexually explicit images of children. The case never went to
trial, so experts never had the opportunity to convince a jury of the artistic
value of manga. Essentially, the expression of pure fantasy is penalized as if
it were a deed connected to the abuse of actual children.
In the meantime, obscenity
prosecutions have increased in frequency – the majority of them targeting
material featuring imaginary children. Indeed, no product of the imagination is
as “patently offensive” in US culture today as imagining children in sexual
situations. But why this panic? There is no inherent connection between
offensive images and real life abuse, as the court wrote in Ashcroft. And no such prohibition exists
where violence is concerned: we are allowed to freely imagine torture,
mutilation, murder, and all sorts of other evil things.
Could it be that the
unnecessary punishment of the sexually explicit imagination is a way for
American culture to deal with the guilt it feels over its obsession with sex
and youth? Because, as countless advertisements prove, Americans are obsessed
with youth and sex (separately, but also together) and yet deny this obsession,
projecting their guilt on the demonized figure of the pedophile.
Witness the modern child beauty pageant: an
increasingly lucrative business, bringing in about a billion dollars a year. In these pageants 5-year olds wear heavy makeup
to emphasize full lips, long eyelashes, and flushed cheeks, high heels to
emulate adult women, and revealing “evening gowns.” One
can freely enjoy the rather perverse spectacle of 5-year olds in suggestive
glam poses, as long as any sexual desire is vehemently denied. The more
titillating young girls are presented as, the more strictly enforced the taboo
on explicit desire.
The pedophile who
engages in taboo fantasies becomes a screen on which to project – and
dissociate from – the guilt of a culture that both sexualizes youth and
obsesses over their innocence. Indeed, disgust here can be seen as the desire
to expel, get rid of our own dark side by projecting it on a demonized
scapegoat: the pedophile.
Why is it so hard to respect the
other even though we may not share his or her sexual fantasies? Perhaps because
we need to find a scapegoat enabling us to maintain our own sense of “purity”,
manage social anxieties, and continue denying our own never-quite-so-innocent
humanity. Fearful of the change brought about by urbanization or immigration vice
societies in the late 19th and early 20th century
projected their anxieties on the young single men laboring in growing
metropolises and those anxieties often took the form of disgust with the dime
novels full of sex and crime that those young men read. Later the object of disgust
became the desire of homosexuals, now it is the imagination of pedophiles.
Disgust is a complexly motivated
emotion, it is part nature, part culture, but it is always so much part of us
that looking rationally upon what disgusts us is almost impossible. And this
impossibility underlies the essential incoherence of obscenity laws in the US.
SVETLANA MINTCHEVA
NCAC's Director of Programs. She has taught literature and critical theory at the University of Sofia, Bulgaria and at Duke University, from which she received her Ph.D. in critical theory in 1999. She currently teaches part-time at New York University. Her academic research and writing focus on postmodern literature and aesthetic provocations as well as issues in censorship and ethics.2014年5月28日水曜日
韓国における漫画弾圧の歴史と、日本の今後
パク・ドジュン(弁護士)
昨日(2014年5月27日)、韓国政府は漫画産業の成長を目的とする長期計画を発表しました。その計画には2016年までに漫画等コンテンツ産業へ1400億円の投資を実施、韓国のネット漫画(webtoonといいます)を各国の言語に翻訳して世界への配信、漫画をもとにした「one source multi-use」の活性化等という内容が含まれており、まさしく「国を挙げて漫画産業を成長させる」という表現が適切な国家的な大計画と言えます。
ですが、その計画を見ている私の心境はとても複雑でした。なぜなら、現在の韓国の漫画の衰退を招いた原因は韓国政府と社会にあるからです。
1972年、韓国では12歳の少年が自殺した事件が起こりました。言論界は少年が漫画の影響で「死んでもまた蘇ることができる」と信じて自殺したのであるという内容の記事を掲げ、大々的に漫画を非難しました。その事件以降、韓国政府は「青少年の育成に有害だ」という大義名分の下で漫画においての表現の自由はもちろん、ひいては韓国の漫画自体を弾圧し、それによって「不良漫画」と分類された20、000冊もの漫画が燃やされるようになりました。
そのような政府と社会の漫画に対する見方-青少年に有害なもの-は変わらず続き、韓国の青少年保護法の施行によって多数の漫画家達が「児童の品性を著しく害する恐れがある図書等を製作した」という嫌疑で刑事起訴された事件も起こりました。その事件は6年間の裁判の末に問題の条項に対して違憲判断が下され、漫画家達に無罪判決が言い渡されました。
1970年代より続いてきた政府と社会による漫画弾圧の結果、日本とは異なった特色を持っていた韓国の漫画の芽は完全につぶされました。その空白を埋めたのが当時不法的に輸入された日本の漫画で、日本の漫画が正式に韓国へ輸入されてから、 韓国の漫画は日本の影響を強く受けるようになり、 韓国の読者は韓国の漫画ではなく、日本の漫画を読むようになったのです。
そして韓国の漫画家は日本でデビューしようとしたり、 生計の為児童向けの教育漫画を描くようになったりしました。
それが、最近、大手インターネット検索サービス会社の「naver」等を通じて ネット漫画が流行り、それを原作にした映画などが人気を得るようになると、現在の政府と言論界は「次世代の韓流はネット漫画」などという美辞麗句を使って漫画を褒め称え始めたのです。
つまるところ、韓国政府の発表した漫画産業の成長計画は1970年代よりの過ちを今になって正そうとしているだけということです。
勿論、韓国漫画の衰退の原因には無断複製をはじめとする違法アップロードの氾濫もありますが、今までの韓国政府と社会の漫画に対する見方 -青少年に有害なものなので、規制しなければならない- が重要な原因のひとつであることは否定できないでしょう。
最近、日本でとある漫画が東京都の青少年健全育成条例(新基準)によって有害図書と初指定されたという記事を見ました。 その記事を見た瞬間、私の頭の中をよぎったのは1970年代の韓国でした。 私は問題の漫画の内容を詳しくは知りませんので、それが青少年の育成に有害かどうかはわかりません。
しかし、「青少年の育成に有害」というのは一見当たり前のように見えますが、 実は曖昧で恣意的に判断されがちな危険性を持っているものだと思います。 一度、その判断を過ると、正すまでに30年以上の非常に長い時間がかかるようになります。
私は日本の最近の一連の動きによって日本が韓国の二の舞を踏むようになるのではないかと懸念しております。もし日本の立法者が1970年代の韓国政府のような判断をしたら、 30年後、日本の漫画は世界から忘れ去られてしまい、政府が漫画産業を成長させようとする計画を立てるかもしれません。
そのようなことが起こらないよう、祈っております。
ソウルを拠点に、マンガやアニメ等のいわゆる「非実在青少年」の性表現を理由に検挙された漫画家や翻訳家への、司法支援活動を行っている。
昨日(2014年5月27日)、韓国政府は漫画産業の成長を目的とする長期計画を発表しました。その計画には2016年までに漫画等コンテンツ産業へ1400億円の投資を実施、韓国のネット漫画(webtoonといいます)を各国の言語に翻訳して世界への配信、漫画をもとにした「one source multi-use」の活性化等という内容が含まれており、まさしく「国を挙げて漫画産業を成長させる」という表現が適切な国家的な大計画と言えます。
ですが、その計画を見ている私の心境はとても複雑でした。なぜなら、現在の韓国の漫画の衰退を招いた原因は韓国政府と社会にあるからです。
1972年、韓国では12歳の少年が自殺した事件が起こりました。言論界は少年が漫画の影響で「死んでもまた蘇ることができる」と信じて自殺したのであるという内容の記事を掲げ、大々的に漫画を非難しました。その事件以降、韓国政府は「青少年の育成に有害だ」という大義名分の下で漫画においての表現の自由はもちろん、ひいては韓国の漫画自体を弾圧し、それによって「不良漫画」と分類された20、000冊もの漫画が燃やされるようになりました。
そのような政府と社会の漫画に対する見方-青少年に有害なもの-は変わらず続き、韓国の青少年保護法の施行によって多数の漫画家達が「児童の品性を著しく害する恐れがある図書等を製作した」という嫌疑で刑事起訴された事件も起こりました。その事件は6年間の裁判の末に問題の条項に対して違憲判断が下され、漫画家達に無罪判決が言い渡されました。
1970年代より続いてきた政府と社会による漫画弾圧の結果、日本とは異なった特色を持っていた韓国の漫画の芽は完全につぶされました。その空白を埋めたのが当時不法的に輸入された日本の漫画で、日本の漫画が正式に韓国へ輸入されてから、 韓国の漫画は日本の影響を強く受けるようになり、 韓国の読者は韓国の漫画ではなく、日本の漫画を読むようになったのです。
そして韓国の漫画家は日本でデビューしようとしたり、 生計の為児童向けの教育漫画を描くようになったりしました。
それが、最近、大手インターネット検索サービス会社の「naver」等を通じて ネット漫画が流行り、それを原作にした映画などが人気を得るようになると、現在の政府と言論界は「次世代の韓流はネット漫画」などという美辞麗句を使って漫画を褒め称え始めたのです。
つまるところ、韓国政府の発表した漫画産業の成長計画は1970年代よりの過ちを今になって正そうとしているだけということです。
勿論、韓国漫画の衰退の原因には無断複製をはじめとする違法アップロードの氾濫もありますが、今までの韓国政府と社会の漫画に対する見方 -青少年に有害なものなので、規制しなければならない- が重要な原因のひとつであることは否定できないでしょう。
最近、日本でとある漫画が東京都の青少年健全育成条例(新基準)によって有害図書と初指定されたという記事を見ました。 その記事を見た瞬間、私の頭の中をよぎったのは1970年代の韓国でした。 私は問題の漫画の内容を詳しくは知りませんので、それが青少年の育成に有害かどうかはわかりません。
しかし、「青少年の育成に有害」というのは一見当たり前のように見えますが、 実は曖昧で恣意的に判断されがちな危険性を持っているものだと思います。 一度、その判断を過ると、正すまでに30年以上の非常に長い時間がかかるようになります。
私は日本の最近の一連の動きによって日本が韓国の二の舞を踏むようになるのではないかと懸念しております。もし日本の立法者が1970年代の韓国政府のような判断をしたら、 30年後、日本の漫画は世界から忘れ去られてしまい、政府が漫画産業を成長させようとする計画を立てるかもしれません。
そのようなことが起こらないよう、祈っております。
パク・ドジュン(박도준 PARK Do June)
1982年生まれ。延世大学法学部卒業。弁護士(大韓民国)。ソウルを拠点に、マンガやアニメ等のいわゆる「非実在青少年」の性表現を理由に検挙された漫画家や翻訳家への、司法支援活動を行っている。
2014年5月20日火曜日
change.org での署名について
追記:
2014年4月12日に始まったこのネット署名は、13,000筆以上を集め、同年5月31日をもって終了しました。
署名サイトの change.org で、「児童ポルノではなく【児童性虐待記録物】と呼んでください」という署名の呼びかけが行われています。(呼びかけ人:廣田恵介 氏)
現実の児童性犯罪の摘発を強力に推進し、実在する被害者の救済を適切に進めていくためにも、漫画等の創作物や普通の家族写真が取締り対象でないことを明確化することは有意義であると思われます。
著名人も続々と賛同を表明し、署名人数はまもなく1万人を超えようとしています。
ゆうきまさみ (漫画家)
赤松健 (漫画家)
おがきちか (漫画家)
北崎拓 (漫画家)
森田崇 (漫画家)
東浩紀 (哲学者)
園田寿 (刑法学者)
金田淳子 (社会学者)
山口浩 (経済学者)
與那覇潤 (歴史学者)
会田誠 (画家)
開田裕治 (イラストレーター)
笹本祐一 (作家)
松沢呉一 (作家)
開田あや (作家)
盛田隆二 (作家)
高須力弥 (形成外科医)
http://www.change.org/ja/キャンペーン/衆議院-参議院の全国会議員721名-児童ポルノではなく-児童性虐待記録物-と呼んでください
参考:
◆ 大阪府青少年健全育成条例
いわゆる児童ポルノ法では、児童ポルノを見る側の価値判断から定義しており、被写体となる子どもにとっては性的虐待や性的搾取が疑われる記録物であっても児童ポルノに該当しない場合があることから、大阪府では被写体となる子どもを守る観点から「子どもの性的虐待の記録」という新しい概念を構築し、これを製造、販売、所持しない努力義務を設けています。
◆ 国際刑事警察機構「適切な用語」
性的虐待を受けて写真を撮られた子どもたちは、保護を受け配慮されるべきであり、受けた虐待の深刻さを「ポルノ」という言葉で矮小化してはならない。
2014年4月12日に始まったこのネット署名は、13,000筆以上を集め、同年5月31日をもって終了しました。
署名サイトの change.org で、「児童ポルノではなく【児童性虐待記録物】と呼んでください」という署名の呼びかけが行われています。(呼びかけ人:廣田恵介 氏)
現実の児童性犯罪の摘発を強力に推進し、実在する被害者の救済を適切に進めていくためにも、漫画等の創作物や普通の家族写真が取締り対象でないことを明確化することは有意義であると思われます。
著名人も続々と賛同を表明し、署名人数はまもなく1万人を超えようとしています。
ゆうきまさみ (漫画家)
赤松健 (漫画家)
おがきちか (漫画家)
北崎拓 (漫画家)
森田崇 (漫画家)
東浩紀 (哲学者)
園田寿 (刑法学者)
金田淳子 (社会学者)
山口浩 (経済学者)
與那覇潤 (歴史学者)
会田誠 (画家)
開田裕治 (イラストレーター)
笹本祐一 (作家)
松沢呉一 (作家)
開田あや (作家)
盛田隆二 (作家)
高須力弥 (形成外科医)
http://www.change.org/ja/キャンペーン/衆議院-参議院の全国会議員721名-児童ポルノではなく-児童性虐待記録物-と呼んでください
参考:
◆ 大阪府青少年健全育成条例
いわゆる児童ポルノ法では、児童ポルノを見る側の価値判断から定義しており、被写体となる子どもにとっては性的虐待や性的搾取が疑われる記録物であっても児童ポルノに該当しない場合があることから、大阪府では被写体となる子どもを守る観点から「子どもの性的虐待の記録」という新しい概念を構築し、これを製造、販売、所持しない努力義務を設けています。
◆ 国際刑事警察機構「適切な用語」
性的虐待を受けて写真を撮られた子どもたちは、保護を受け配慮されるべきであり、受けた虐待の深刻さを「ポルノ」という言葉で矮小化してはならない。
2014年5月19日月曜日
ゲンとアンネと図書館の自由
講演スライド「ゲンとアンネと図書館の自由」を公開いたします。
このスライドは、2014年4月27日に開催された「第18回静岡県図書館交流会」での、NPO法人うぐいすリボン副代表:佐久間美紀子の報告を、一部加筆・修正したものです。
2014年5月16日金曜日
共催「児童ポルノ禁止法・院内勉強会」
児童ポルノ禁止法・院内勉強会
コンテンツ文化研究会さんとの共催で議員会館で開催した「児童ポルノ禁止法・院内勉強会」には、平日の午前中にも関わらず、70人以上の方が参加して下さいました。
講師の高山佳奈子先生と、会場の手配をして下さった阿部知子衆院議員(無所属)、ご来場・ご祝辞を頂きました山田賢司衆院議員(自由民主党)、三谷英弘衆院議員(みんなの党)、山田太郎参院議員(みんなの党)に、心から御礼を申し上げます。
今回の講師の高山先生は、実際の人身売買や性暴力への対応を重視する立場から、児童ポルノ犯罪への対策に取り組んでおり、「京都府児童ポルノの規制等に関する条例」の策定等に関わったことでも知られています。
講師:高山 佳奈子 (京都大学大学院法学研究科 教授)
日時:2014年05月16日
会場:衆議院第一議員会館 多目的ホール
主催:コンテンツ文化研究会
共催:特定非営利活動法人うぐいすリボン、女子現代メディア文化研究会
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