Svetlana Mintcheva
性的空想に法的制限を設けるべきか
米国の歴史的、法的及び政策的な観点
「この分野での経験から何かを学ぶとするならば、わいせつ物の検閲は今に至るまで必ずと言っていいほど不合理かつ無差別的であったということだ」
最高裁判事ウィリアムO.ダグラス
最高裁判事ウィリアムO.ダグラス
憲法修正第1条と性: 性表現は言論として保護されているか? 立法の根拠としての「害」対「嫌悪感」
米国は「自由の地」のイメージに尽力しており、考える自由と話す自由、すなわち米国憲法修正第1条に記された権利ほど、この国で大事にされている自由はない。しかし、この権利は決して絶対的ではない。この数百年間、裁判所では第1条の保護の範囲について激しい議論が繰り広げられ、性が関係している場合には特に大きな論争を引き起こしている。
非常に長い間、裁判所と一般社会はいずれも、露骨な性表現を保護された言論として認識すらせず、検閲は厳しいものだった。今日でさえ、性表現はワンランク下の特異な立場にあるが、この事実はほとんど理に適っておらず、米国の社会文化的な歴史の複雑な遺産として残された結果であると説明するしかない。
性は罪深く下品で、時には嫌悪感すら覚えるものとしての認識が受け継がれており、今日に至るまで裁判所はそのような認識を持って取り組んでいる。「害を及ぼす」という合理的な根拠で非常に強い情緒反応を呼び起こすものを規制しようとすると、矛盾が生じる。国民と国家の利益を保護する権限により、政府は、そのいずれかに実質的な損害を引き起こす場合には、表現を規制して制限する権利を有する。しかし、性表現に関して言えば、不快感や嫌悪感という強い感情は、害を証明する要件よりも優先されることが多い。今日、わいせつな表現(すなわち、法的に保護されない性表現)は、一人の人間に対する実害ではなく社会の構成員にとって「不快」であるという理由だけで、唯一、修正第1条の保護を拒絶されたままである。ジョン・スチュアート・ミルが150年前に主張したとおり、言論の法的規制の目的上、不快感は害を及ぼすものと判断することはできない。
しかし、嫌悪感は、区別をつける根拠として不合理であるだけでなく、差別的でもある。規制の原則として「嫌悪感」の根底にあるのは、特定の社会集団を支配して従属させたいという欲望である。その支配と正反対なのは、道徳的な混乱や道徳観の崩壊ではなく、欲望と他者の空想を尊重することである。