2014年8月19日火曜日

性的空想に法的制限を設けるべきか ~米国の歴史的、法的及び政策的な観点~

Svetlana Mintcheva
性的空想に法的制限を設けるべきか
米国の歴史的、法的及び政策的な観点

 「この分野での経験から何かを学ぶとするならば、わいせつ物の検閲は今に至るまで必ずと言っていいほど不合理かつ無差別的であったということだ」
最高裁判事ウィリアムO.ダグラス

憲法修正第1条と性: 性表現は言論として保護されているか? 立法の根拠としての「害」対「嫌悪感」

米国は「自由の地」のイメージに尽力しており、考える自由と話す自由、すなわち米国憲法修正第1条に記された権利ほど、この国で大事にされている自由はない。しかし、この権利は決して絶対的ではない。この数百年間、裁判所では第1条の保護の範囲について激しい議論が繰り広げられ、性が関係している場合には特に大きな論争を引き起こしている。

非常に長い間、裁判所と一般社会はいずれも、露骨な性表現を保護された言論として認識すらせず、検閲は厳しいものだった。今日でさえ、性表現はワンランク下の特異な立場にあるが、この事実はほとんど理に適っておらず、米国の社会文化的な歴史の複雑な遺産として残された結果であると説明するしかない。

性は罪深く下品で、時には嫌悪感すら覚えるものとしての認識が受け継がれており、今日に至るまで裁判所はそのような認識を持って取り組んでいる。「害を及ぼす」という合理的な根拠で非常に強い情緒反応を呼び起こすものを規制しようとすると、矛盾が生じる。国民と国家の利益を保護する権限により、政府は、そのいずれかに実質的な損害を引き起こす場合には、表現を規制して制限する権利を有する。しかし、性表現に関して言えば、不快感や嫌悪感という強い感情は、害を証明する要件よりも優先されることが多い。今日、わいせつな表現(すなわち、法的に保護されない性表現)は、一人の人間に対する実害ではなく社会の構成員にとって「不快」であるという理由だけで、唯一、修正第1条の保護を拒絶されたままである。ジョン・スチュアート・ミルが150年前に主張したとおり、言論の法的規制の目的上、不快感は害を及ぼすものと判断することはできない。

しかし、嫌悪感は、区別をつける根拠として不合理であるだけでなく、差別的でもある。規制の原則として「嫌悪感」の根底にあるのは、特定の社会集団を支配して従属させたいという欲望である。その支配と正反対なのは、道徳的な混乱や道徳観の崩壊ではなく、欲望と他者の空想を尊重することである。


歴史を概説する:社会統制及び服従としての検閲

「危険な」(多くは性的な)題材を抑圧する目的で形成された市民団体は、アメリカの一つの伝統である。早くも19世紀には、いわゆる悪徳弾圧協会(vice societies)が、都市化、人口統計の変化及び大衆文化の拡散によって生じた新たな社会不安に対応しながら「公衆道徳を守る」という責務を自ら引き受けている。性表現を規制するこれらの試みは、社会的変化に対する不安と関連していた。

悪徳弾圧協会が抑圧したものは、常に理性的な議論を超越していた。彼らが下劣な題材のもたらす「不健全な」影響と見なしたものは、彼らにとって社会の道徳的健全性に対する「明らかな」脅威であった。彼らの行動が憲法に違反するとは誰も考えなかった。その一つの理由として、修正第1条は1920年代以前の各州には適用しなかった(連邦訴訟のみに適用した)ことが挙げられ、また別の理由としては、女性、子ども、または労働者として都市に溢れる無学の独身男性や移民の大多数の集団を堕落させないように性表現を制限する必要があるという有力な意見を、政治指導者や社会的指導者はほとんど疑問視しなかったからだろう。

性についての議論の制限は、プロテスタントの宗教的伝統から受け継がれているのかもしれないが、悪徳弾圧協会の推進力は社会統制に対する不安から生まれた。19世紀の悪徳弾圧協会によって抑圧された題材の中には、ヌードのデッサンや官能小説の他に、女性の健康についての情報が含まれていたことは注目に値する。性表現の規制は、女性、労働者階級及び新たな移民―すなわち、今や社会的及び文化的に重要な役割を持って、産業化された、都会的国家であるアメリカの顔を特徴付けている集団―を支配することと同じくらいに、教義の上に設定された一定の「伝統的な」道徳規範を保護するものであった。

わいせつを定義する:性表現はいつ犯罪になるのか
1957年まで米国のわいせつ訴訟で用いられていた曖昧で主観的な法的基準は 1868年の英国での訴訟によるものであり、この基準は「ふしだらな影響を受け入れる心を持った人々(すなわち、下層階級、女性及び子ども)を不純にして腐敗させる」傾向のある題材は何であれ、「わいせつ」と定義していた。この法律は、「みだらな思考をかき立て」やすい文章や画像は「低俗かつ下品」であり「嫌悪と憎悪」の感情を呼び起こすとして非難した。

しかし、私たちは欲望と嫌悪をどうやって同時に感じることができるのだろうか。誰が興奮して、誰が嫌悪を覚えるのだろうか。そこには二人の対象者が関係していると思われる。一人は欲望を抱く者で、もう一人はその欲望に嫌悪を抱く者である。そこで再び述べると、私たちは、権力者に従って「欲望」が「適切に」管理されていない人々を服従させたいという欲望を抱く。もちろん、この場合には一人の分裂した対象者がいるだろう。それは、一度は欲望を感じるものの自分自身の感情に嫌悪を抱く人である。そしてその状況から、享楽を罪とする宗教の多大な重責が明らかになるだろう。

1957年のロス対合衆国事件では、米国最高裁判所がわいせつの最初の定義を公表した。それまでわいせつと考えられていたために修正第1条に保護されていなかった範囲が狭くなり、(1)淫乱な(病的な、不健康な)性への興味を刺激する題材、(2)地域社会の基準により不快とされる題材、及び(3)芸術的、政治的、科学的または教育的な価値をも完全に欠いた題材に絞られた。それにもかかわらず、嫌悪と欲望の葛藤は残されたままであった。まだ曖昧な定義ではあるが(何が病的で何が性への健康的な興味かを誰が判断するか)、これによって極めて重要な考慮が追加された。それは「価値」である。これにより、それまで米国で禁止されてきた多くの書籍、特にD.H.ローレンスのチャタレイ夫人の恋人(Lady Chatterley’s Loverやヘンリー・ミラーの北回帰線(Tropic of Cancerの出版が可能になった。

ロスの裁判では、性は人間の状態及び美術創作の重要な一部であることが正式に認められた。ウィリアム・ブレナン裁判官(裁判所の意見を示した人)の言葉によれば、「性は人の生活において偉大で謎めいた原動力であり、紛れもなく大昔から人類が夢中になる対象である。」

この認識にもかかわらず、「明らかに不快」で「価値」の乏しい性表現は保護されないままであった。ヒューゴ・ブラック裁判官はダグラス裁判官とともにこれに強く反対した。ダグラス裁判官の意見では、このわいせつ規制は「あからさまな行為や反社会的行動を罰するのではなく、ふと考えた思考を罰する」基準を課すものであった。 彼の書面による反対意見の中で、ダグラス裁判官はわいせつ基準と修正第1条の間の矛盾を指摘した。「この国における出版物の適法性は、それが読者の心に吹き込む思考の純粋さや、それが共同社会の良心を害する程度をもとに判断してはならない。どちらの検証によっても、検閲の役割が賛美され、文学的自由における社会の価値が犠牲になる。」

単に性的思考を引き起こしたというだけの理由でわいせつ規制は題材を非難する一方で、性的な思考と欲望の喚起は、通常の生活において毎日数限りない方法で起こっている、とダグラスは指摘した。さらに「地域社会の基準に反するかどうか」の検証は「表現の自由の破壊をもたらすもの」であった。なぜなら、その検証のもとでは、それが「性的不純」に関係している場合や「みだらな思考を刺激する」傾向がある場合には、陪審員は自分が好きではないものを何でも差し止めることができたからである。

性の自由化への逆風
しばらくの間社会は変動しており、性表現に関するすべての政府規制が間もなく撤廃されて、ダグラスの見解が主流となるかのごとく思われた。次から次へと書籍が出版されて「わいせつではない」とされた。1960年代は性の自由化の時代の到来を告げ、これにより上流社会の保守層は性に対する寛容性を心配した。

性に関する規制を論理的根拠に基づかせるため、ジョンソン大統領は、ポルノグラフィーの影響を研究する「ロックハート」委員会を任命し、これによって害が立証されて性表現を自由に抑圧できるようになることを期待した。しかし、2年後に委員会は、ポルノグラフィーは実際には害ではないとう結論を下し、わいせつ法の撤廃を要求した。ニクソン大統領は直ちに委員会の報告書を断固として非難し、「その道徳的に破たんした結論を拒絶」するとともに、もし彼の政権下でポルノグラフィーが廃絶されないのであれば規制することを約束した。

1973年ミラー対カリフォルニア州 :地域社会の基準の導入及び「厳正な」価値検証

1973年に最高裁で争われたある訴訟によって、ロスの設定したわいせつ基準が再検討された。時代遅れのわいせつの概念を排除する代わりに、裁判所はその範囲を拡大した。

ブレナン裁判官はロスの事件で意見を示した人物であるが、彼は今では異なる意見を表明し、性表現のいかなる規制にも反対していた。判決は僅差であり、5人の陪審員がわいせつ基準の維持に票を投じ、4人が反対票を投じた。

ダグラス裁判官の反対意見は、やはりその洞察力が注目すべき点である。「私にとってショックなものが、隣人にとっては生計の手段かもしれない。一つのパンフレットや映画をめぐりある者を怒りで沸き上らせるものは、その者の神経症を反映しただけかもしれず、他者はそれを共有していないかもしれない。」これは、相互に尊重し合う原則として私が考えていることである。私たちは他の人々の空想によって嫌悪を抱くかもしれないが、これが彼らを犯罪者にする理由にはならない。

1957年に、ダグラスは、気分を害するという概念は規制の根拠としては曖昧で主観的であると批判した。「判決を下す特定の裁判官や陪審員にとって「不快」な発想に対し、修正第1条が罰を認めるという考えは驚くべきことである。修正第1条は、人々に精神安定剤を投薬するための手段として作られたのではない。その主な機能は、「生真面目な」人々と「気分を害する行動を取る」人々が自由に討論できるようにしておくことであった。」

危害原理

性表現を規制したい人々は、何度も繰り返して、それが害を及ぼすことを証明しようとする。そして、直接の因果関係を示す証拠は存在しないという実験結果が何度も反復して現れる。しかし、政治家はそれでも同意しない。

1985年に、エドウィン・ミース司法長官は、ポルノグラフィーの有害な影響に関する調査書類を発表した反ポルノグラフィーの活動家を集め、委員会を開いた。攻撃的な態度と性的暴力を結びつけるには「実験的証拠だけでは見られない憶測が必要である」ことを認める一方で、委員は「これらの憶測を立てない理由はない。それは私たち自身の常識によって明らかに正当化されている」とした。委員会が相談した専門家は、その結論を批判した。

価値の主張

わいせつ法の支持者が同法を擁護する方法とは、その法律は、真面目な芸術的、文学的、政治的または科学的な価値のある題材には影響を及ぼさないと主張することである。問題なのは、この議論によって、わいせつとされる題材の擁護者はその価値を証明するという負担を強いられることである。

1989年、写真家ロバート・メイプルソープの回顧展The Perfect Momentは、オハイオ州シンシナティの現代美術センター及びその所長に対するわいせつ罪の原因となった。問題となったのは、ハードゲイ(レザー・サブカルチャー)の卑猥な場面を表現した数枚の写真と、性器が見える幼児たちの2枚の写真であった。

この事件は裁判にかけられた。芸術の専門家から証言を聞いた後、陪審員はミラー対カリフォルニア州事件以降わいせつを定義している三要件テストに基づいて、その作品がわいせつかどうかを判断しなければならなかった。最初の2つのテスト要件は、その題材は性への好色な興味に訴えるかどうか、及び地域社会の基準により明らかに不快かどうかを問うものであり、これらに対する答えは明らかにイエスであった。したがって陪審員の判断は、このテストの第三の要件、すなわちその題材は真面目な文学的、芸術的、政治的または科学的価値に欠けているかにかかっていた。

しかし、作品の「明らかな不快感」に反して、ミラーの言うところによれば、その価値は地域社会が判断するのではなく、全国基準で判断しなければならない。被告側は、メイプルソープの写真の芸術的意義を称賛した全国の著名な美術専門家を呼び集めた。彼らの意見に従い、陪審員はこの作品には真面目な芸術的価値があり、それゆえにわいせつではないと判断した。この注目を浴びるメイプルソープ事件で有罪判決が下されなかったことで、芸術はわいせつ罪から実質上守られることになり、少なくとも専門家は芸術をそのように認識するようになった。

これはある程度認知された芸術家にとっては良いニュースであるが、密かに活動する若き漫画家マイク・ダイアナのように、芸術界で確立した地位を持たない人々にとってはさほど良いニュースではない。彼は、自身の描く漫画で1994年にフロリダ州ピネラス郡でわいせつの有罪判決を受けている。同様に、一部の人からはその価値が低いと考えられている日本の漫画のような今日の題材が、わいせつ罪での起訴に直面している。法的な重罰を受けることを考え、現在のところこれらはすべて司法取引で終わっている。その結果、漫画に関する限りは、裁判所において価値の主張が正式に検証されていない。これは残念なことである。なぜなら、国際的に漫画が普及し、その文化がますます知られるようになっていることを考えれば、恐らく専門家は陪審員にその芸術的価値を納得させて、米国を漫画ファンにとっての安全な場所にすることができると考えられるからである。

しかし、広く認められる価値を確立することがそれほど重要なのだろうか。事実上、米国の言論の自由の擁護者は価値の主張を利用する一方で、言論の適法性をその芸術的な知覚「価値」によって決めようとすることで、文化的階層の統合に役立ち、少数派のサブカルチャーを抑圧するに過ぎない。誰もが知っているとおり、価値とは、歴史的瞬間の偏見を反映したものである。

言論の価値の持つ役割は、性表現との関連においては他のどの場合とも非常に異なった見方がされるというのは、何とも不思議である。2010年の暴力に関する訴訟(米国対スティーブンス)で裁判官は、修正第1条の保護からの明確な除外を申し立てるには「言論の価値と社会的代償」を天秤にかける単純な釣り合い試験に基づいて検討すべきである、という主張を棄却した。裁判官は、歴史が繰り返し証明してきたように、今日価値があるとは思われないものでも明日には価値があるかもしれないと述べた。もちろんこれは、露骨な性表現と同じように(それ以上ではないにしても)暴力的内容の表現にも当てはまる。

21世紀 の魔女狩りまたは想像への懸念

性表現をめぐる恐怖は、子どもが関与する場合に極めて深刻である。性的な内容を含まない裸体像は完全に適法であり、それが大人か子どもかを問わず保護の対象となるのであるが、児童ポルノの定義が曖昧であることから、それが性的なものとして「見られる」かどうかを心配せずに裸の子どもの写真を撮ることは困難になっている。単にそのような画像を所有するだけで、その所有者は長期の実刑判決のリスクに晒されるかもしれない。

いわゆる「児童ポルノ」、すなわち子どもを巻き込んで性交を描いた画像は刑法により禁じられている。理由は、そのような画像を作成すること自体が本質的に実際の子どもの虐待と関連しているからである。実際に、ポルノグラフィーの作成における児童の利用及び虐待は、厳重な罰則に値する犯罪である。

しかしながら、児童ポルノの法的な定義付けは徐々に拡大し、未成年者を巻き込んだ実際の性交の描写だけでなく、未成年(裸または服を着ているかを問わない)の描写で性器を「みだら」に強調したものまで含まれるようになっている。
しかし、子どもの写真が「みだら」に性器を強調したものであることを誰が判断するのか。もし、ベンチの上で遊んでいる子どもの無邪気な画像が、小児性愛者の「みだら」な興味をかき立てたらどうなるのか。それは、子どもの画像の判断基準となる小児性愛者の潜在的反応とすべきだろうか。法律は、曖昧ではあるが、子どもまたは十代の若者の画像がポルノグラフィーであるか否かはこれを見る人の判断に任せている。最悪の場合、子どもの画像を見る検察官によって、その画像が小児性愛者の目にはどのように映るかは偏った議論に陥る。

しかし、実際の子どもを描いていない卑猥な画像はどうだろうか。コンピューターで作成して紙に印刷した画像ならばどうだろうか。前世期の最後の23年間で、児童ポルノ法が拡大してそのような模擬画像、いわゆる「バーチャル児童ポルノ」であっても規制の対象となるかと思われた。1996年児童ポルノ防止法のある条項は、「卑猥な行為に関与する未成年またはそのように見える未成年」の「写真、フィルム、ビデオ、画像、コンピューター画、またはコンピューター生成画像を含む視覚的表現」を禁止した。2002年のアシュクロフト対表現の自由連盟の裁判で、米国最高裁判所は、この条項が憲法違反であり、修正第1条に違反しているとの判決を下した。

この条項は、言論と行動の直接的な関連を生み出すことを目的とするものであり、その論理的根拠は以下のとおりであった。
1.児童性愛者は、子どもを性的活動へ参加させるためにその題材を利用するかもしれない。
2. 児童性愛者は、そのポルノ画像で「自らの性的欲求を刺激」し、結果として児童ポルノの作成と流通、及び実際の子どもの性的虐待と利用を増大させるかもしれない。

最初の論理的根拠―すなわち、子どもを誘惑するために題材を利用すること―は、「例えば、漫画、ビデオゲーム、キャンディのようにそれらの中には無害なものがたくさんあり、これらは不道徳な目的で利用される可能性はあるが、悪用されかねないという理由でそれらが禁止されることは期待していない」という理由から、裁判所はこれを認めなかった。児童性愛者が子どもを性行動へ誘い込むために使われかねないと言う理由で法律がチョコレートやアイスクリームを禁止できないのであれば、それと同じ目的(本来の目的は完全に異なるかもしれない)で使用されかねない画像を禁止することもできないのである。

児童性愛者の欲求を刺激することと違法行為への関与を促すことに関して、裁判所は、単に発言が不法行為を奨励するという傾向があるというだけでは、それを禁止する十分な理由にはならないと断言した。ブランダイス裁判官が1927年に示したように、「自由市民の間では、犯罪を防ぐために通常適用される抑止力は教育と法律違反に対する罰則であり、自由な言論の権利の剥奪ではない。」犯罪者は、ドストエフスキーの 『罪と罰(Crime and Punishment)』またはアーサー・ペンの映画『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』に触発されたと主張するかもしれないが、不法行為を助長する可能性があるという理由で書籍が禁止されることはない。

児童虐待の画像と実例との因果関係はいつも(想像の産物と特定の行為に見られるどの関係とも同じように)偶発的で間接的であるため、裁判所は「バーチャル児童ポルノ」は子どもの性的虐待とは「本質的には関連していない」とした。性交に関与する想像上の子どもの画像がもたらす害は、必ずしも何かしらの言論に続いて起こるものではなく、その後の犯罪行為の無制限の可能性によって決まるものであり、これが言論を制限する根拠とはなり得ない。

裁判官は、それがロミオとジュリエットの舞台作品(実際に、未成年として登場して性交をするように見える俳優を主役にするかもしれない)であろうが、ロリータに基づく映画(映画制作会社は、成人男性と思春期の少女の卑猥なシーンを撮影するのに代役を使うかもしれない)であろうが、拡大された法律が芸術に悲惨な結果をもたらした可能性があることも認めた。いずれの俳優も成人と考えられるが、未成年として登場するだろう。法律による厳罰がいつこれらに適用されるかが明らかでないため、法律に違反するかもしれないと考える映像や画像を敢えて配信する映画制作会社や書籍出版社はほとんどない。彼らは、裁判所では合法とされ得る題材を自主検閲し、拒絶するだろう。

これらすべての検討事項に基づき、最高裁判所は児童ポルノ法に基づいて想像上の子どもの性的画像を犯罪化することを却下し、言葉と言動の間、思考と行為の間に、重要な区別をつけるべきであると主張した。

それでも、性的な場面で完全に架空の子どもを表現することは、その制作者と配給業者のほか、消費者にもリスクをもたらす。それらの映像や画像は実際の子どもを参加させていないためにこれらを児童ポルノとして分類することはできないが、ひねりを加えてわいせつ法に基づき起訴される可能性があり、実際に起訴されている。これらは児童ポルノに関連する罰則と同等の罰則が科される。厳しい刑罰は 、裁判所でわいせつ罪に異議を唱えようとしている人々にとって阻害要因となる。弁護側は通常、刑罰の軽減に対する見返りとして有罪を認める。このようにして、2010年にある男性が子どもの卑猥な画像を描いた日本の漫画を郵便で受け取ったことに対し、わいせつ罪を認めた。この事例は裁判にかけられなかったため、専門家は陪審員に漫画の芸術的価値を納得させるチャンスはなかった。本質的に、単なる空想の表現は、それが実際の子どもの虐待と関連する行為であるかのごとく罰せられるのである。

その間にも、わいせつ罪による起訴は増えており、その大多数は想像上の子どもを描いた題材がターゲットとされている。実に、性的な場面で子どもを想像するほど、想像の産物が今日のアメリカ文化において「明らかに不快」とされるものはない。しかし、この恐怖はなぜだろうか。アシュクロフト事件で裁判官が示したように、不快な画像と現実の虐待の間には特有の関連は存在しない。そして、暴力が関係する場合はそのような禁止は存在しない。私たちは、拷問や切断、殺人、その他のあらゆる種類の邪悪なことを自由に想像することは許されているのである。

卑猥な想像を不必要に罰することは、アメリカ文化が性や若さへの執着に対して感じている罪の意識を抑える一つの方法ということはできるだろうか。なぜなら、数え切れないほどの広告が証明しているように、アメリカ人は若さと性(個別的ではあるが、一緒の場合もある)に執着しているが、悪者扱いされる児童性愛者の姿に自らの罪悪感を投影してこの執着を否定しているからである。

現代の美少女コンテストを見てみよう。これは、ますます利益性の高まっているビジネスであり、年に約10億ドルをもたらしている。これらのコンテストでは、ある5歳の少女が厚い化粧をして、ふっくらした唇や長いまつ毛、赤らんだ頬、ハイヒールを際立たせて大人の女性を真似し、「イブニングドレス」を披露している。性的欲望が強く否定されている限りは、この思わせぶりでグラマーなポーズを取る5歳児のやや屈折した光景を自由に楽しむことができる。より刺激的な少女が現れるほど、明白な欲望に対してより厳しいタブーが強制される。

タブーとされる空想にふける児童性愛者に対しては、若さに性的意味を持たせて幼い子どもの純粋性に執着する文化の罪が投影され、その罪との関係を断ち切るスクリーンとなる。実に、ここでの嫌悪感は、悪者扱いの身代わり、すなわち児童性愛者に自分自身の邪悪な側面を投影することで、そういった自分の側面を追い出して取り除く願望として捉えることができる。

相手の性的空想を共有しないにもかかわらずその人を尊重することが、なぜそれほどまでに困難なのだろうか。それは恐らく、私たちが自らの「純粋」な感覚を維持し、社会不安に対処し、自らの「必ずしも純真ではない人間性」を否定し続けることを可能にしてくれる身代わりを見つける必要があるからである。都市化や移民がもたらす変化を恐れて、19世紀後半及び20世紀初めの悪徳弾圧協会は、成長する大都市で働く若い独身男性に彼らの不安を投影し、それらの不安はしばしば、こういった若い男性の読む性と犯罪に満ちた三文小説への嫌悪感となって現れた。その後、嫌悪感の対象は同性愛者の欲望となり、今それは児童性愛者の想像となっている。

嫌悪感は複雑に刺激される感情で、部分的に自然であり部分的に文化であるが、私たちに嫌気を起こさせるものを理性的に考えるのはほぼ不可能であるということが常に大半の現状である。そして、この不可能が、米国におけるわいせつ法の本質的な矛盾の基礎となっている。


スヴェトラーナ・ミンチェバ (Svetlana Mintcheva)
 全米反検閲連盟執行役員、ニューヨーク大学講師

本原稿は、2013年8月の東京での講演をもとに書き下ろされたものを日本語に翻訳した。原文はこちら

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