この事件について、アメリカにおけるファン・コミュニティ等の動向に詳しい翻訳家の兼光ダニエル真さんに解説をして頂きました。(以下の原稿は2017年9月13日に公開した緊急寄稿を加筆・修正して、正式版として翌日14日に公開したものです)
ケモナー市会議員ドックス事件
寄稿:兼光ダニエル真(翻訳家)
2017年9月に米国コネチカット州の人口2万人くらいの町、ニュー・ミルフォードのtown councilman(町会議員)がfurry(ケモナーとよく和訳されます)であるとして晒し行為にあい、一部の住民から批難されて辞職に追い込まれました。
三つの報道記事を読んで自分なりの分析をします。
元ネタの記事:
元ネタを元に各紙で展開している記事例:
後日談的な記事で、ファーリーは不当に弾圧されているのではないかという切り口の記事:
事のあらまし:
前々からケモナーということをあまり隠していないかった民主党派のニュー・ミルフォード町会議員の新人議員スコット・チェンバレン氏。誰からがチェンバレン氏が加盟している会員制ファーリーサイトへとアクセスしてチェンバレン氏のプロフィール情報を根こそぎぶっこぬきました。
この情報をFacebookにリック・アギー氏が「(有権者として)地元町議会のことを知ろう」とチェンバレン氏の趣味や志向情報を晒し、地元民主党の定例会議みたいな普段は何事も無い集会でアギー氏を含む少人数(恐らく一ダース未満)の抗議デモが勃発。「変態が私の町の取り仕切るな!」と連呼しました。
アギー氏の投稿やデモの情報は地元新聞やネットでどんどん拡散してゆきます。
チェンバレン氏は議員になる前からファーリー(ケモナー)であることはあまり隠していなかったが、恐らく回りは「キグルミが好きな人」程度の認識だったのが、会員制サイトで(恐らく想像上の)性癖やエロ創作にまで及んでいたことに驚いた模様。とかく「強姦(描写)を排除はしない」”rape – tolerate”というプロフィール設定がかなり物議を呼びました。
やがてデビッド・グロンバック市長はチェンバレン氏に辞職を迫り、チェンバレン氏は応じます。
なお、チェンバレン氏はグロンバック市長の市長選挙の選挙事務長でした。
二人は恐らくそこそこ親しい友人であり、グロンバック市長からすれば弁護すると「腹心を庇っている」と叩かれるのはなるべく避けたかったのでしょう。
表現の自由や個人の主義主張を尊重するアメリカ的には直接誰かが被害になっている嫌疑が全く掛けられていないにもかかわらず、チェンバレン氏への圧力は不当ではないかという問い合わせに対してグロンバック市長は「公職に就く者にはより高い水準が求められる」と今回の辞職を迫ったことを弁護しました。
ここから兼光の分析を並べます。
●Sex is different「性は別」論:
日本では許容されないような描写がアメリカ映画では多くありますが、一つだけ日本の方が寛容な題材があります。性です。アメリカを論じるとき、現地の人間の間でよく使う表現があります:Sex is different.(性は別。)これはどんな問題も性が絡むと次元が変わるということを示すものです。例えばゲームでそれだけ惨たらしい暴力描写があっても、性行為が絡まない限りかなり許容されます。お色気や性行為を匂わせるだけでレーティングで未成年へのアクセスを制限するのが有名な一例でしょう。
●着ぐるみは禁じられた趣味ではない:
誤解しやすいですが「着ぐるみが好き」だったのが問題ではありません。「着ぐるみ趣味」と「性についての探求」が同居していたことが多くの米国人にとって穏便ではない印象を与えたのです。そもそも「人の道を外れた性の可能性をSNSで嗜む」だけで村八分されてもおかしくない国なのです。米国は個人の権利と表現の自由を尊重する国でもあります。こういった性のサブカル要素を消し去りたい人たちもいますが、多くは「私達の知らないところでやってくれ」という考え方です。しかし公人が「想像上の規格外の性を嗜む」となると正当な理由が要求されます。チェンバレン氏が作家や音楽家、もしくはブラックユーモアを持ち味にしたコメディアンだったらより社会からの風当たりもこれほど強くなかったでしょう。少なくとも有権者を代弁する立場の人間には相応しくないという盛り上がりが発生してもなんら驚きません。人気コメディアンがアダルト映画鑑賞中に劇場で自慰行為に耽ったという理由などで社会的に抹殺されそうになりました。ピーウィー・ハーマンことポール・ルーベンスの事件もまた大変興味深いです。
●米国人の多くの間で想像上の性癖と現実の性癖が一緒にされてしまっている:
日本に比べるとアメリカの方がエロについてリアルとファンタジーの使い分けが下手ですが、アメリカ国内でもかなりの温度差があります。チェンバレン氏などクラスターの中にいる人間と外の人間の間では「想像上に隔離できる物事」について認識が違います。例えば今回の事件でもチェンバレン氏は件のファーリーSNSで「強姦(描写を含む作品)を排除しない」(tolerateは「許容可能」とも翻訳できます)という設定は、Pixivなどの投稿サイトでどんなコンテンツに興味あるかないかを明文化するフィルターです。このことを指摘しつつ「ファーリー趣味は(実際の)性行為とは関係ない」とチェンバレン氏は反論しましたが、「想像上の性行為」と「実際の性生活」を混同しやすいアメリカにおいてはこの反論はうまく響かなかったと言えるでしょう。
●良い性と悪い性議論の典型:
そもそもアメリカでは議員がエロ創作物を書いていた(記事を読む分にはおそらくチェンバレン氏はキグルミとエロ画を楽しみつつ、エロマンガの原作を用意して他の人に作画でマンガを作っていた)段階で議員生命が大ピンチになります。しかしながら例え想像上であっても「強姦を排除しない」というのがプロフィールに結びつくともう完全に「悪い性」という分類に入りやすいです。そもそも「明るいケモナー」と「ド変態ケモナー」という区分が有効なアメリカですから、一旦道を踏み間違えたと認証されると「ケモナーでエロって神への冒瀆だ!」「人間の性の道から外れた変態だ!」という批難が噴出しやすいのです。更には「正しい性創作」という考え方すらあります。「健全な性の営みを描写した創作物は問題ないが、想像上でも強姦などの反社会的な性描写はけしからん」という意見は珍しくありません。ここで断っておきますが、米国最高裁判所はそのような「反社会的な性描写」であっても実在する人間に危害が及ばず(未成年虐待副産物・児童ポルノではない、強姦行為の撮影ではない、プライバシーに抵触しない、等々)、猥褻ではない限り表現の自由の範疇に含まれ、保護対象になりえると判例を構築しています。
法律上は保護されている表現でも、一般的には容認されるべきではないと考える人もいますし、地方や年代によっては許容範囲が大きく異なるのを忘れてはいけません。
それでもなお、「良い性と悪い性」に分けようとする議論はアメリカでは古く、同性愛行為の制限や人種間婚姻の違法化も同じ背景の中で生まれ、撤回されたことを意識する必要があります。
●2・5次元の恐怖:
アメリカでは完全に創作の世界に留めている、若しくは昔から表現の自由の適応範囲内と認識されている領域内であればかなり社会的には快くない事柄や惨たらしい描写も容認されやすいです。しかしコスプレやキグルミなど「創作の世界に近づいている」という姿勢を露にしていると他人から認識されればそこからがリアルでどこからが想像上のプレイなのかが不明瞭となりやすいです。日本のように「空気にあわせて生きるのがデフォルト」ではない社会ですから、価値観が不明な人は非常に怖がられます。これはファーリーだけにとどまる話ではなくてロック歌手なども同類扱いされるでしょう。「ステージでやっているショーをリアルでもやっている」と誤解する人はどこにも居るのです。
●ファーリーの温度差:
日本のオタクも問題児はいますが、「リアルはダメ」という共通認識や規律はかなり磐石であるとわたし個人的は思います。「想像上だけで楽しむ紳士淑女の領域」から外れると途端に集中砲火が始まるでしょう。しかしファーリーは結構古いファンダムですが、全体の自治能力がほぼ皆無に近い側面があります。ファーリーというジャンルは実はものすごく広く、「単にケモノキャラが好き・描く人」から「自らの体を改造してケモノに近づく人」「リアルに獣姦をしたい人」まで含められます。後者ものすごい少数派ですが、外連味の強いので必要以上にメディアで取り沙汰されます。これらファーリーは同じテントの下で仲良くやっているわけではなく、お互いに「オマエ気持ち悪い」とか「にわかファーリーめ」などとやりやっていますが、部外者からすれば総てファーリーとも見えます。もちろん、野球の試合で登場するマスコットが実や獣姦マニアというような認識は世間にはありません。このために「良いファーリー」「悪いファーリー」という二元論が横行しやすいのです。
●「社会からつまはじきモノ」の間の断絶:
この「良いファーリー」と「悪いファーリー」はファーリーのアイデンティティーにも影響を与えます。銃器マニアや人種差別主義者、サバイバルリストはどのファンダムにもいますが、ファーリーの間では結構目立った存在になることがありました。「国家・社会が非寛容であり、自衛する必要がある」「自分の身は自分で守る」という考え方から逆に非寛容的になったり、えげつない商売したり、銃を備蓄する人間もいました。さらには銃を所持容認論から他の社会政策では反論しても最終的には共和党寄りになる人もいました。ポリコレの流れにかなり抵抗している流れが古いファーリーの間では存在していると私は理解しています。「銃器携帯擁護してくれる・独裁的なポリコレに反対する共和党」「銃器を違法化する・ポリコレ推進派民主党」という競争のイメージがファーリーだけに留まらず、多くのファンダムの中に介在することがなくはないことを忘れないでください。
●二種類の容認されるべき公人:
これはアメリカに限った話ではありませんが、多くの人気公人は自らを「聖人君子」タイプか「急進派論客」タイプの方向性で自らを演出します。万人嫌われても特定の主義主張や正義を推し進めるのも私は急進派論客の区分に入れます。本来、政治家は聖人君子的な方向性を演出したがるのに対して、トランプは既存の政治の流れへの不満をうまく捕まえて大成しています。地元民主党なので地元住民からの嫌われたらお終いという点はありますが、チェンバレン氏騒動はこの二つの議論を巻き込んでいます。つまり「ポリコレ」の論法から言えば、ファーリー系も擁護されるべきではないか?という議論が生じるのはポリコレ急進派からすれば自明です。しかし「強姦を排除しない」が擁護論を切り崩します。もし創作者としての背景が強い人ならば「強姦を排除しないはリアルの強姦を肯定しているという意味ではない」と論じることが可能ですが、やはり聖人君子志向の強い民主党派閥としては「弱者救済」的立場を優先させて折れたでしょう。逆に多くの左翼の人からすると想像上の性志向について語ったチェンバレン氏が批難されて、実際に女性への強制わいせつを豪語したトランプ氏が許されるのかという不満がくすぶると思われます。
●アニメ・マンガへの波及の可能性:
端的にいうとあまり無いと思います。それはファーリーが既に50年近い歴史をもっているので古い慣習や仲間意識がネット以前のがまだ強いのに対して、アニメ・マンガファンダムの主力は今や1980~1990年代生まれが主体となっています。メジャーカルチャーの一部として認識されているので「欧米の価値観に馴染む部分と馴染まない部分」で揉まれてきたアニメ・マンガファンは性癖やリアル・創作の使い分けがファーリーよりもかなり意識させられているのだと思います。
またファーリーは全米で大ヒットしている『マイ・リトル・ポニー』ファンダムと一部で重なっている部分がありますが、ファーリーとして入ってきた人間と『マイ・リトル・ポニー』で入ってきた人間では立ち居地が非常の異なるので混同は危険です。むしろ同属嫌悪で『マイ・リトル・ポニー』ファンダムはエキセントリックに見えるファーリーを嫌っているのも予想できます。
最後のファンダムという表現ですが、ファンダムという言葉にはあまり意味はないと私は思います。アメコミのファンも、アニメ・マンガのファンも、SFのファンも、ファーリーも「ファンダム」ですが、お互いにやり取りが多いかというと結構分断されたクラスタの傾向が強いと思います。
日本におけえる「二次創作のコミュニティー」ほど連帯感はないと思います。
●想像上のアイデンティティーの脆弱性:
最後に特定のファンダムではそれ相応のアイデンティティーを構築するのは珍しくありません。ただ、日本ではゲームでネカマやったり、ナチスのコスプレやってもあまり騒ぎになりません。しかし米国だと「自らの出自を偽った行動」と行動だと捉えられ、他民族や異なるジェンダーのアイデンティティーや文化からの搾取に値する「cultural appropriation」と物議を醸しやすいですし、ナチスのコスプレをしているのに正しい答えを用意出来ないと途端に人種差別主義として村八分になります。
最後に今回の騒動の渦中の人の呟きを紹介しましょう。
Hi,
Guys!
Just wanted to let you all know that I'm alive, and well, and taking some 'me' time at Tiny Paws Con. Your support rocks!
Just wanted to let you all know that I'm alive, and well, and taking some 'me' time at Tiny Paws Con. Your support rocks!
こちらのスコット・チェンバレン氏のつぶやきですが
「やあ、みんな!僕は元気だってみんなに伝えたいんだ。あとそうだな、ちょっとTiny Paws Conで自分らしい楽しい時間を過ごしてるさ。みんなの応援、最高だぜ」
とわたしなら翻訳します
補記:
ドクシングって何?:DoxingとかDoxxingと綴ります。解りやすく言うと晒し行為です。
皆様へのお願い
今後も「表現の自由」に関する専門家の所見作成を継続するために、皆様からの寄付を必要としています。クレジットカード、コンビニ支払、銀行振込、ゆうちょ振替で簡単に決済できます。ぜひ御協力くださいませ。