2012年1月11日水曜日

寄稿「メディアの自主規制 ソフトローの倫理を考える」


静岡大学情報学部講師 原田伸一朗

 去る20111217日、アクトシティ浜松で開催されたうぐいすリボン浜松講演会にて「メディアの自主規制 ソフトローの倫理を考える」と題しまして、1時間ほどお話をさせていただきました。近年のテレビアニメを中心に「自主規制」の現状をご紹介するとともに、そうした自主規制を「ソフトロー」という枠組みで捉え、そのあり方を倫理的視点から考えるという内容です。
「ソフトロー」は、法学の世界で注目を集めている概念です。「やわらかい法」という意味ですが、従来の硬い「法」とは異なり、国家権力によって強制されない、自発的に従うことで担保されるような柔軟なルールのことで、「自主規制」もその一つです。

現代社会では、あらゆる領域で「自主規制」という規制方法が取られるようになってきています。表現においても例外ではなく、むしろ、放送、映画、出版、テレビゲームなど、さまざまなメディアにおいて、表現の自主規制がおこなわれています。自主規制とは、本来、国家や法によって上から規律されるのではなく、規制を受ける側が自らを律するという高い倫理性を要求されるおこないです。けれども、自主規制が必ずしも「自主」的・「自律」的でなく、行政の代行に過ぎなかったり、業界団体内部において不透明な決定がおこなわれていたりするなど、モラリティ・ガバナンスの面で問題も指摘されています。むしろ行政の主導により、自主規制の透明性・アカウンタビリティが迫られている面もあり、これは「自主」の意味が損なわれてしまいかねない「情けない」事態とも言えます。
「表現」は「行動」ときれいに切り離すことができず、何らかのアクションと結びつく分だけ、社会へも影響を与えます。それこそが、表現する目的と言ってもよいでしょう。自由な表現を可能にするためには、それに伴う責任も果たす必要があります。私たちは、何のパワーも受けない無重力空間に生きているわけではないので、自主規制といえども、本当に「自発」的であることはまれでしょう。それを外圧ではなく、ポジティブなインタラクションと受け止め、自主規制の公正性を確保していく仕組みをこれから模索していく必要があるでしょう。自主規制の役割が大きくなるにつれて、そのあり方もパブリックに問われることになるのです。
講演では、テレビアニメにおいて「自主規制」がどのようにおこなわれているのか、「オリジナルな表現」と「自主規制された表現」とを比較しながら、ビジュアルな素材も多数ご覧いただきました。暴力や残酷な表現を含む「ひぐらしのなく頃に解」や「School Days」の放送中止騒動は、一般紙にも取り上げられるほどの社会問題にもなりました。未成年者の飲酒・喫煙などは、アニメで描くことも忌避されるようになってきています。東日本大震災の影響で、津波のシーンが登場するアニメも「不謹慎」として自粛せざるを得なくなりました。もちろん、過激な性表現を売りにするアニメなど、オンエア後にパッケージ・ソフトを販売するための差別化戦略として話題性を狙ったものもあるでしょうが、「公共の電波」でどこまで表現できるのか、自由と責任が交錯するいくつもの小さな局面をテレビアニメに目撃することができるでしょう。
最後に、「表現の自由のためのたたかい
と言っても、普通の人にはあまりピンとこない大げさなスローガンです。流血の末に勝ち取ったはずの自由も、今は空気のような存在です。空気だからこそ、ひとたびそれが失われたら、息苦しい社会になってしまいます。そうならないためにも、日常を生きている私たちの、さりげない「表現の自由」への「気づき」「意識」は大切なことだと思えるのです。