2013年7月9日火曜日

全米反検閲連盟(NCAC)のミンチェバ博士、日本の児ポ法改正案に懸念表明

 全米反検閲連盟(NCAC)のスヴェトラーナ・ミンチェバ博士から、ビデオメッセージが届きました。
 日本の児童ポルノ禁止法改正案について、「アニメやマンガを規制しても、表現の自由が奪われるだけで、子どもの性的虐待の問題は解決しない」と懸念を表明してくれています。

(このビデオメッセージは、2013年6月13日開催の、コンテンツ文化研究会主催・うぐいすリボン共催の院内勉強会に寄せられたものです)

http://www.ncac.org/Staff
Svetlana Mintcheva is NCAC's Director of Programs.


【ミンチェバ博士からのメッセージ】


 こんにちわ。私の名前はスベトラーナ・ミンチェヴァです。

ニューヨークを本拠地において活動しています全米反検閲連盟(NCAC)の事業担当役員です。

我々は全米で活動する50の団体の連盟で、それぞれ表現の自由を守るのを目的としています。今日、ここにおいて私は日本の児童ポルノ法改正に際して提案されている新しい条項について憂慮を表明したく存じます。

特に憂慮しているのは改正案においてマンガ・アニメと刑事捜査レベルの児童虐待との間の関連性の調査義務です。



私は文化創作行為と犯罪行為との関連性についてこのような行過ぎた焦点の当て方はマンガ・アニメの萎縮を呼び、自己検閲を招き、やがては世界中において人気のある文化創作行為の一つに対して甚大かつ悪い影響を及ぼすと思います。

マンガ・アニメは全米に多くのファンが居るだけでなく、世界中にファンが居ます。

マンガ・アニメを名指しにして特別な焦点を当てるということは創造物を児童の現実の虐待と同等にすることを意味します。これは深刻な児童虐待の罪を矮小化させるだけでなく、創造物を不当に罰する行為です。

人は様々な想像をします。中には私たちが嫌悪を感じるような想像もあるでしょうが、想像によって人が傷つくことはありません。

想像を守ることは表現の自由を守る上でとても重要なことです。

言うまでもなく、児童虐待は本当に深刻な犯罪行為です。世界中においてそれは深刻な犯罪です。

しかし、児童虐待の違法性と児童虐待画像の違法性、これらと実在児童が関わらない画像の違法性の間にはっきりとした線引きが必要です。児童虐待画像は児童の虐待を記録した記録物であるから違法であり、これに対して創作物の理念や想像の産物として誰かの反感を買い槍玉に挙げられるのとは明白な違いあります。

2002年において米国最高裁判所は未成年者と思しき人物や実在する未成年者が露骨な性的行為を行っていると思わせるような視覚的表現物、写真・映画・ビデオ・イラスト・CG画像、などなどを全て違法化する法律が違憲であるという判断を下しました。

なぜ最高裁はこの法律を違憲であるとして無効にしたのでしょうか?

それは行動と表現、それぞれに対する懲罰にはっきりとした線引きが必要だからです。

最高裁はその判決文において児童ポルノの頒布と所持の違法化という表現の自由に対して制限は児童ポルノの製造過程の特徴故に許されると示しています。

すなわち、児童ポルノの製造において実在児童の虐待が伴っていたからです。

しかしまったく想像上の表現物、児童と認識できるような人物を描写した画像、マンガやアニメ、そして映画などのおいては被害者は存在しません。それらの作品メディアの製造過程において誰も被害を被っていません。

「表現」と「行動」の間にはっきりとした線引きが必要なのです。

表現の違法化、もしくは誰かが気に入らないという理由で特定の創作画像を違法化したり、または誰かが悪しき行動を誘発する可能性を主観的に論じた結果に違法化するなど許すことの出来ない表現の自由の権利への制限です。

これはマンガ・アニメと犯罪行動がどのように関連しているのかを調査するだけであり、特定の表現物を違法化しているわけではないと主張する方々もいらっしゃるでしょう。確かに改正案には調査義務としか書かれていませんので、調査研究であることは確かです。

人間の行動は様々な要因に影響されることがこれまでの研究で明らかになっています。その場の状況、遺伝的な要因、育成環境、そして接した文化創作物も人を影響する要因の一つであることは確かでしょう。しかし人間の犯罪行為に直接的な作用を生み出すような影響の与えるとして特定の表現物を名指しにすれば、このような文化的表現物に対して高まった関心を規制推進への機運とする方々が出てくるのは確実です。

私たちの文化が直面している問題を解決してくれる「魔法の銃弾」があれば、それを活用しなくてはならないという幻想は歴史を通して常にあります。

特定の文化的表現物を禁止することこそが「魔法の銃弾」だと信じる人が決して少なくありません。

しかしそれは違います。

恐らく発生するのは特定の文化表現物が萎縮であり、生産者側による自己検閲の強化、または特定の表現物を制限することが政治的に都合のよい方々などのよる働きかけから違法化なども考えられます。しかしながら社会問題の解決に至る可能性は非常に薄いでしょう。

結局、表現の自由の萎縮という結果を招くことになるのです。

(翻訳 兼光ダニエル真)